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婚約破棄された世話焼き令嬢は、隣国で問題児に捕まりました  作者: ミナト


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11/25

11 前髪の奥

 翌朝、リリーナはいつも通りアレスの部屋へ向かいながら、昨夜の人影のことを考えていた。

 正直、誰かに話すべきかどうか迷っていた。学園長に報告するべきかもしれない。でも一方で、あれが本当に外部からの人間だったとしたら――

 学園長への報告より先に、アレスに確かめなければいけないことがある気がした。

 あの視線は、アレスに向いていた。


(何か、知っているんじゃないかしら……)


 三階の廊下に差し掛かったとき、アレスの部屋の前を通り過ぎた人影が見えた。

 一瞬のことだった。廊下の角に消えていく背中――背丈、体格、動き。学園の制服ではない。昨夜の木立の影と、同じ気配だった。

 リリーナは足を速めた。

 アレスの部屋の扉をノックする。三回。


「アレスさん、今すぐ開けてください」


 いつもと違う声音が伝わったのか、一秒も経たないうちに鍵が開いた。

 扉を押し開けると、アレスが立っていた。寝起きらしく前髪が乱れていて、制服も着ていない。それよりリリーナが見たのは、アレスの顔色だった。

 悪かった。

 起きたばかりとは別の種類の顔色だ。


「廊下に、誰かいましたか」


 アレスの体が、わずかに固まった。


「……いない」

「今すぐここを出た方がいいと思います。着替えてください」

「なぜ」

「説明は後で。今は動いてください」


 アレスはリリーナをしばらく見た。前髪の隙間から、何かを測るような気配がした。

 それから、無言で着替え始めた。


 二人で寮を出て、人通りの多い校舎の方へ向かった。

 朝の移動時間で廊下は生徒でそれなりに賑わっていた。人混みの中に入ると、リリーナは少しだけ息を吐いた。人の多い場所の方が、身を隠しやすい。


「見たのか」


 アレスが、前を向いたまま低い声で言った。


「昨夜と今朝、二度」

「……昨夜から、気づいていたのか」

「中庭で。あなたには言いませんでした、驚かせたくなかったので」


 アレスが黙った。


「あれは何ですか」

「……」

「学園の人間ではありません。外から来ている。あなたを監視しています」


 アレスは答えなかった。

 廊下を歩きながら、リリーナはアレスの横顔――前髪しか見えないが――を見た。口が閉じている。答える気がないのではなく、何から話すべきか考えているような沈黙だった。


(やっぱり、知っている)


 聞こうとした、そのとき。

 校舎の角を曲がったところで、人とぶつかった。

 ぶつかった、というのは正確ではなかった。――誰かに、腕を掴まれた。

 驚きよりも先に体が反応して、リリーナは掴まれた腕を引こうとした。しかし力が強く、引けなかった。


「リリーナ・エルフォード嬢で間違いないですね」


 声は低く、穏やかだった。それが余計に、背筋が冷えた。

 男が二人いた。制服ではない。どちらも、何でもない顔をしていた。その「何でもない顔」が一番、訓練された人間の顔だとリリーナは知っていた。


「少しよろしいですか。静かに来てもらえれば、何もしません」

「離してください」

「そうもいかなくて」


 もう一人が、アレスの方へ回り込もうとした――。

 次の瞬間、アレスが動いた。

 リリーナには、何が起きたか一瞬分からなかった。

 気づいたら、リリーナの腕を掴んでいた男が壁際に押し込まれていた。アレスが男の腕を取って、体重を乗せて制している。もう一人は――

 床に膝をついていた。アレスが片手で押さえている。

 一秒もかからなかった。


「……っ」


 男たちが体勢を立て直そうとする。

 しかし、アレスは動じなかった。両手に一人ずつ、まるで最初からそこにいたかのように制している。

 ただの問題児が、することではないような動きだった。

 体の使い方が、まるで違う。重心の低さ、力の入れ方、制圧のための動線――護衛か、それとも自分で身を守ることを叩き込まれた人間の、動き方だった。


「リリーナ」


 アレスが言った。


「走れ。人のいるところへ」

「あなたを置いて――」

「走れ」


 今まで聞いたことのない声だった。問題児の気だるい声ではなく、命令に慣れた人間の、迷いのない声。

 リリーナは一歩、下がった。

 そのとき、三人目がいた。

 廊下の反対側から来た、もう一人の男。こちらはリリーナを目がけていた。アレスは気づいていない。


「――アレスさん、右!」


 叫んだと同時に、男の手がリリーナの肩をかすめた。アレスが振り向いて、リリーナとの間に割り込んだ。

 勢いで、二人がぶつかる。

 アレスがリリーナを庇う形で壁を背にした。リリーナの背中が壁に当たる。アレスがリリーナを片腕で覆っていた。

 衝撃で、前髪が乱れた。

 リリーナは目の前のアレスを見た。

 見えた。

 顔が、見えた。

 前髪が完全にずれて、額から目元まで露わになっていた。整った顔だった。高い鼻梁、均整の取れた輪郭――

 でも、リリーナが息をのんだのはそこではなかった。

 目の色だった。

 金色だった。

 夕暮れの隙間から一瞬だけ見えた色ではなく、真正面から、はっきりと。深く澄んだ黄金色が、リリーナをまっすぐに見ていた。


 こんな色の目を持つ人間を、リリーナは知っていた。


 肖像画で見たことがあった。公式な記録で読んだことがあった。

 この国の王家に伝わる特徴として、文献に記されていた――

 ケセルト王国の王族にのみ現れる、黄金の瞳。


(この色は、)


 記憶が繋がった。

 思い出せなかったものが、一瞬で像を結んだ。

 廊下の向こうで、男たちが距離を取っていた。人の声が近づいてくる――誰かが騒ぎに気づいたのか、走ってくる足音が聞こえた。男たちが、視線を交わして、踵を返した。

 足音が、遠くなって、消えた。

 残ったのは、二人だけだった。

 アレスがリリーナを庇ったまま、壁を背にして立っている。前髪は乱れたままだった。

 二人とも、動かなかった。

 リリーナはアレスを見た。アレスはリリーナを見ていた。この距離で、この状態で、はっきりと。

 アレスが、ゆっくりと前髪を手で直した。

 金色が、また前髪の向こうに消えた。

 静寂が落ちた。


「……アレスさん」


 リリーナは、静かに言った。


「あなたは、いったい何者なの」


 アレスは答えなかった。

 ただ、長い沈黙があった。

 廊下の奥から、人が来る気配があった。アレスが小さく息を吐いた――それは、覚悟を決めたときの息の吐き方に似ていた。


「……話す」


 声は低く、静かだった。


「場所を変える」


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