11 前髪の奥
翌朝、リリーナはいつも通りアレスの部屋へ向かいながら、昨夜の人影のことを考えていた。
正直、誰かに話すべきかどうか迷っていた。学園長に報告するべきかもしれない。でも一方で、あれが本当に外部からの人間だったとしたら――
学園長への報告より先に、アレスに確かめなければいけないことがある気がした。
あの視線は、アレスに向いていた。
(何か、知っているんじゃないかしら……)
三階の廊下に差し掛かったとき、アレスの部屋の前を通り過ぎた人影が見えた。
一瞬のことだった。廊下の角に消えていく背中――背丈、体格、動き。学園の制服ではない。昨夜の木立の影と、同じ気配だった。
リリーナは足を速めた。
アレスの部屋の扉をノックする。三回。
「アレスさん、今すぐ開けてください」
いつもと違う声音が伝わったのか、一秒も経たないうちに鍵が開いた。
扉を押し開けると、アレスが立っていた。寝起きらしく前髪が乱れていて、制服も着ていない。それよりリリーナが見たのは、アレスの顔色だった。
悪かった。
起きたばかりとは別の種類の顔色だ。
「廊下に、誰かいましたか」
アレスの体が、わずかに固まった。
「……いない」
「今すぐここを出た方がいいと思います。着替えてください」
「なぜ」
「説明は後で。今は動いてください」
アレスはリリーナをしばらく見た。前髪の隙間から、何かを測るような気配がした。
それから、無言で着替え始めた。
二人で寮を出て、人通りの多い校舎の方へ向かった。
朝の移動時間で廊下は生徒でそれなりに賑わっていた。人混みの中に入ると、リリーナは少しだけ息を吐いた。人の多い場所の方が、身を隠しやすい。
「見たのか」
アレスが、前を向いたまま低い声で言った。
「昨夜と今朝、二度」
「……昨夜から、気づいていたのか」
「中庭で。あなたには言いませんでした、驚かせたくなかったので」
アレスが黙った。
「あれは何ですか」
「……」
「学園の人間ではありません。外から来ている。あなたを監視しています」
アレスは答えなかった。
廊下を歩きながら、リリーナはアレスの横顔――前髪しか見えないが――を見た。口が閉じている。答える気がないのではなく、何から話すべきか考えているような沈黙だった。
(やっぱり、知っている)
聞こうとした、そのとき。
校舎の角を曲がったところで、人とぶつかった。
ぶつかった、というのは正確ではなかった。――誰かに、腕を掴まれた。
驚きよりも先に体が反応して、リリーナは掴まれた腕を引こうとした。しかし力が強く、引けなかった。
「リリーナ・エルフォード嬢で間違いないですね」
声は低く、穏やかだった。それが余計に、背筋が冷えた。
男が二人いた。制服ではない。どちらも、何でもない顔をしていた。その「何でもない顔」が一番、訓練された人間の顔だとリリーナは知っていた。
「少しよろしいですか。静かに来てもらえれば、何もしません」
「離してください」
「そうもいかなくて」
もう一人が、アレスの方へ回り込もうとした――。
次の瞬間、アレスが動いた。
リリーナには、何が起きたか一瞬分からなかった。
気づいたら、リリーナの腕を掴んでいた男が壁際に押し込まれていた。アレスが男の腕を取って、体重を乗せて制している。もう一人は――
床に膝をついていた。アレスが片手で押さえている。
一秒もかからなかった。
「……っ」
男たちが体勢を立て直そうとする。
しかし、アレスは動じなかった。両手に一人ずつ、まるで最初からそこにいたかのように制している。
ただの問題児が、することではないような動きだった。
体の使い方が、まるで違う。重心の低さ、力の入れ方、制圧のための動線――護衛か、それとも自分で身を守ることを叩き込まれた人間の、動き方だった。
「リリーナ」
アレスが言った。
「走れ。人のいるところへ」
「あなたを置いて――」
「走れ」
今まで聞いたことのない声だった。問題児の気だるい声ではなく、命令に慣れた人間の、迷いのない声。
リリーナは一歩、下がった。
そのとき、三人目がいた。
廊下の反対側から来た、もう一人の男。こちらはリリーナを目がけていた。アレスは気づいていない。
「――アレスさん、右!」
叫んだと同時に、男の手がリリーナの肩をかすめた。アレスが振り向いて、リリーナとの間に割り込んだ。
勢いで、二人がぶつかる。
アレスがリリーナを庇う形で壁を背にした。リリーナの背中が壁に当たる。アレスがリリーナを片腕で覆っていた。
衝撃で、前髪が乱れた。
リリーナは目の前のアレスを見た。
見えた。
顔が、見えた。
前髪が完全にずれて、額から目元まで露わになっていた。整った顔だった。高い鼻梁、均整の取れた輪郭――
でも、リリーナが息をのんだのはそこではなかった。
目の色だった。
金色だった。
夕暮れの隙間から一瞬だけ見えた色ではなく、真正面から、はっきりと。深く澄んだ黄金色が、リリーナをまっすぐに見ていた。
こんな色の目を持つ人間を、リリーナは知っていた。
肖像画で見たことがあった。公式な記録で読んだことがあった。
この国の王家に伝わる特徴として、文献に記されていた――
ケセルト王国の王族にのみ現れる、黄金の瞳。
(この色は、)
記憶が繋がった。
思い出せなかったものが、一瞬で像を結んだ。
廊下の向こうで、男たちが距離を取っていた。人の声が近づいてくる――誰かが騒ぎに気づいたのか、走ってくる足音が聞こえた。男たちが、視線を交わして、踵を返した。
足音が、遠くなって、消えた。
残ったのは、二人だけだった。
アレスがリリーナを庇ったまま、壁を背にして立っている。前髪は乱れたままだった。
二人とも、動かなかった。
リリーナはアレスを見た。アレスはリリーナを見ていた。この距離で、この状態で、はっきりと。
アレスが、ゆっくりと前髪を手で直した。
金色が、また前髪の向こうに消えた。
静寂が落ちた。
「……アレスさん」
リリーナは、静かに言った。
「あなたは、いったい何者なの」
アレスは答えなかった。
ただ、長い沈黙があった。
廊下の奥から、人が来る気配があった。アレスが小さく息を吐いた――それは、覚悟を決めたときの息の吐き方に似ていた。
「……話す」
声は低く、静かだった。
「場所を変える」




