12 アレスの正体
場所は、図書室の奥の個室だった。
閲覧室の突き当たりにある小さな部屋で、団体での資料調査に使うものらしく、普段はほとんど使われていない。アレスが迷いなく案内したということは、知っていた場所なのだろう。
扉を閉めると、外の音が遠くなった。
窓から朝の光が差し込んでいる。テーブルを挟んで、二人が向かい合って座った。
アレスは前髪を直していたが、さっきよりは乱れが残っていた。前髪の向こうの輪郭が、光の加減でわずかに見える。
リリーナは何も言わずに待った。
急かす必要はないと思った。アレスが「話す」と言った。それで十分だったから。
しばらく、沈黙があったあと、アレスが、テーブルの一点を見つめたまま口を開いた。
「本名は、アレスじゃない」
静かな声だった。
「俺の名は、アーレン・ヴェルト・ケセルト。ケセルト王国、第三王子だ」
リリーナは息を吐いた。
やっぱり、と思った。黄金の瞳。文献の記述。肖像画の記憶。繋がっていたものが、今はっきりと一本の線になった。
「偽名でこの学園に入った。王宮から逃げるために」
「逃げる、というのは」
「王位継承争いから」
アレスは――アーレンは――短く言った。
「この国の王宮は今、継承争いで荒れている。第一王子、第二王子、それぞれの母親の派閥が権力を競っている。俺は第三王子で、母親は早くに亡くなった。後ろ盾がない分、争いには加わっていないが――邪魔な存在ではある」
「それで、狙われている?」
「そうだ」
アーレンが、わずかに動いた。
「今朝の男たちは、王宮からの刺客だ。おそらく第二王子の母の手の者。昨夜も出たと言っていたな、それも同じだろう」
「なぜ学園に」
「学園は全寮制で、身分を問わず入れる。学園長も俺が王子だとは知らない。ここにいれば王宮から距離が置ける。そう思って、二年前に入った」
リリーナはテーブルの上で手を組んだ。
「もしかして、異常な眠りも関係していますか?」
今度の沈黙は、少し長かった。
「……呪いだ」
アーレンが言った。
「眠りの呪い。意識とは関係なく、強制的に意識を奪われる。誰がかけたかは最初は分からなかったが、おそらく第二王子の母だ。タイミングが合う。学園に来る少し前から始まった」
「解き方は」
「分からない。呪いを施した本人、または相当の魔法技術を持つ者でなければ解けないらしい」
リリーナは静かに聞いていた。
「それで」
アーレンが続けた。声が、少しだけ変わった。
「どうにかしようと思っていた時期もあった。最初は」
「最初は、ということは」
「……諦めた」
それだけだった。
「呪いがある。王宮に戻れば殺されるかもしれない。戻らなければここに隠れ続けるしかない。どちらを選んでも、たいして変わらない気がして――」
「アレスさん」
リリーナの声に、アーレンが止まる。
「一つだけ聞いていいですか」
「……何だ」
「呪いのことも、身分のことも、王宮のことも――今まで一人で抱えていたんですね」
問いというより、確認だった。
アーレンは答えなかった。答えないことが、答えだった。
リリーナは少しの間、テーブルの上の自分の手を見た。
怒りはなかった。騙されたという感情も、正確には違った。ただ――
目の前の人間が、ずいぶん長い間、一人で抱えてきたものの重さを、今さらながら考えていた。
「怒らないのか」
「何に怒るんですか」
「偽名だった。身分を隠していた。お前を巻き込んだ」
「巻き込まれたのは今朝だけです。それより前は、あなたが隠していたんですから私には関係ない」
アーレンが黙った。
「ただ」
リリーナは顔を上げた。
「一つだけ言っていいですか」
「……あぁ」
リリーナはアーレンを見た。前髪の向こうの顔を、正確には見えないけれど、目があたりに視線を向けた。
「あなたは、このまま負けたままでいいんですか」
静寂が落ちた。
「呪いで眠らされて、王宮から追い出されて、刺客が来ても学園に隠れて、それで――諦めた、と言うんですか」
声は責めていなかった。問うていた。
「あなたがどうするかは、あなたが決めることです。でも一つだけ分からないことがあって」
「何だ」
「あなた、頭がいいじゃないですか。魔法の腕もある。さっき見ました――あの動き方、ただの学生じゃない。それだけのものを持っていて、呪いに、継承争いに、諦めているんですか」
アーレンは何も言わなかった。
「もったいないと言ったことがあります。あなたの頭が、ということで。でも今は、もっと別のことで思っています」
「……何を」
「あなた自身が、もったいない」
また、沈黙。
今度は、さっきとは種類の違う沈黙だった。
アーレンの肩が、わずかに動いた。前髪が揺れて、隙間から目元が――かすかに見えた。
リリーナは見ていた。
アーレンの表情を、うまく読み取れなかった。前髪があるから、というだけではなかった。その顔にあるものが、これまで見てきた無気力でも塩対応でもなかった。もっと内側にある、何か――。
傷ついているような、恥じているような。
初めて見る表情だった。
「……」
アーレンは何も言わなかった。
でもリリーナには、その沈黙が、今までのどの無言とも違うと分かった。
窓から差し込む光が、テーブルの上で白く伸びている。朝の授業の始まりを告げる鐘の音が、遠くから聞こえてきた。
二人とも、動かなかった。
鐘の音が止んで、また静かになった。
「……俺は」
アーレンが、ようやく口を開いた。
声が、低かった。いつもより、ずっと低かった。
「考える」
それだけだった。
でもリリーナは、その「考える」が今までのものとまったく違うと分かった。「授業に来るか」と聞かれて答える「考える」ではなかった。もっと重い、もっと深いところから出てきた言葉だった。
「はい」
リリーナは短く答えた。
急かさなかった。続きを求めなかった。
それだけで、今は十分だった。
◇ ◇ ◇
図書室を出たとき、廊下は授業中で静かだった。
並んで歩きながら、リリーナはふと思った。
(アーレン、か)
まだ口には出していない。本名で呼ぶのは、もう少し後でいい気がした。
アレスが――アーレンが、隣を歩いている。いつもより少しだけ背筋が立っているような気がしたが、気のせいかもしれなかった。
廊下の窓から、青い空が見えた。




