表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された世話焼き令嬢は、隣国で問題児に捕まりました  作者: ミナト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/25

12 アレスの正体

 場所は、図書室の奥の個室だった。

 閲覧室の突き当たりにある小さな部屋で、団体での資料調査に使うものらしく、普段はほとんど使われていない。アレスが迷いなく案内したということは、知っていた場所なのだろう。

 扉を閉めると、外の音が遠くなった。

 窓から朝の光が差し込んでいる。テーブルを挟んで、二人が向かい合って座った。

 アレスは前髪を直していたが、さっきよりは乱れが残っていた。前髪の向こうの輪郭が、光の加減でわずかに見える。

 リリーナは何も言わずに待った。

 急かす必要はないと思った。アレスが「話す」と言った。それで十分だったから。


 しばらく、沈黙があったあと、アレスが、テーブルの一点を見つめたまま口を開いた。


「本名は、アレスじゃない」


 静かな声だった。


「俺の名は、アーレン・ヴェルト・ケセルト。ケセルト王国、第三王子だ」


 リリーナは息を吐いた。

 やっぱり、と思った。黄金の瞳。文献の記述。肖像画の記憶。繋がっていたものが、今はっきりと一本の線になった。


「偽名でこの学園に入った。王宮から逃げるために」

「逃げる、というのは」

「王位継承争いから」


 アレスは――アーレンは――短く言った。


「この国の王宮は今、継承争いで荒れている。第一王子、第二王子、それぞれの母親の派閥が権力を競っている。俺は第三王子で、母親は早くに亡くなった。後ろ盾がない分、争いには加わっていないが――邪魔な存在ではある」

「それで、狙われている?」

「そうだ」


 アーレンが、わずかに動いた。


「今朝の男たちは、王宮からの刺客だ。おそらく第二王子の母の手の者。昨夜も出たと言っていたな、それも同じだろう」

「なぜ学園に」

「学園は全寮制で、身分を問わず入れる。学園長も俺が王子だとは知らない。ここにいれば王宮から距離が置ける。そう思って、二年前に入った」


 リリーナはテーブルの上で手を組んだ。


「もしかして、異常な眠りも関係していますか?」


 今度の沈黙は、少し長かった。


「……呪いだ」


 アーレンが言った。


「眠りの呪い。意識とは関係なく、強制的に意識を奪われる。誰がかけたかは最初は分からなかったが、おそらく第二王子の母だ。タイミングが合う。学園に来る少し前から始まった」

「解き方は」

「分からない。呪いを施した本人、または相当の魔法技術を持つ者でなければ解けないらしい」


 リリーナは静かに聞いていた。


「それで」


 アーレンが続けた。声が、少しだけ変わった。


「どうにかしようと思っていた時期もあった。最初は」

「最初は、ということは」

「……諦めた」


 それだけだった。


「呪いがある。王宮に戻れば殺されるかもしれない。戻らなければここに隠れ続けるしかない。どちらを選んでも、たいして変わらない気がして――」

「アレスさん」


 リリーナの声に、アーレンが止まる。


「一つだけ聞いていいですか」

「……何だ」

「呪いのことも、身分のことも、王宮のことも――今まで一人で抱えていたんですね」


 問いというより、確認だった。

 アーレンは答えなかった。答えないことが、答えだった。

 リリーナは少しの間、テーブルの上の自分の手を見た。

 怒りはなかった。騙されたという感情も、正確には違った。ただ――

 目の前の人間が、ずいぶん長い間、一人で抱えてきたものの重さを、今さらながら考えていた。


「怒らないのか」

「何に怒るんですか」

「偽名だった。身分を隠していた。お前を巻き込んだ」

「巻き込まれたのは今朝だけです。それより前は、あなたが隠していたんですから私には関係ない」


 アーレンが黙った。


「ただ」


 リリーナは顔を上げた。


「一つだけ言っていいですか」

「……あぁ」


 リリーナはアーレンを見た。前髪の向こうの顔を、正確には見えないけれど、目があたりに視線を向けた。


「あなたは、このまま負けたままでいいんですか」


 静寂が落ちた。


「呪いで眠らされて、王宮から追い出されて、刺客が来ても学園に隠れて、それで――諦めた、と言うんですか」


 声は責めていなかった。問うていた。


「あなたがどうするかは、あなたが決めることです。でも一つだけ分からないことがあって」

「何だ」

「あなた、頭がいいじゃないですか。魔法の腕もある。さっき見ました――あの動き方、ただの学生じゃない。それだけのものを持っていて、呪いに、継承争いに、諦めているんですか」


 アーレンは何も言わなかった。


「もったいないと言ったことがあります。あなたの頭が、ということで。でも今は、もっと別のことで思っています」

「……何を」

「あなた自身が、もったいない」


 また、沈黙。

 今度は、さっきとは種類の違う沈黙だった。

 アーレンの肩が、わずかに動いた。前髪が揺れて、隙間から目元が――かすかに見えた。

 リリーナは見ていた。

 アーレンの表情を、うまく読み取れなかった。前髪があるから、というだけではなかった。その顔にあるものが、これまで見てきた無気力でも塩対応でもなかった。もっと内側にある、何か――。

 傷ついているような、恥じているような。

 初めて見る表情だった。


「……」


 アーレンは何も言わなかった。

 でもリリーナには、その沈黙が、今までのどの無言とも違うと分かった。

 窓から差し込む光が、テーブルの上で白く伸びている。朝の授業の始まりを告げる鐘の音が、遠くから聞こえてきた。

 二人とも、動かなかった。

 鐘の音が止んで、また静かになった。


「……俺は」


 アーレンが、ようやく口を開いた。

 声が、低かった。いつもより、ずっと低かった。


「考える」


 それだけだった。

 でもリリーナは、その「考える」が今までのものとまったく違うと分かった。「授業に来るか」と聞かれて答える「考える」ではなかった。もっと重い、もっと深いところから出てきた言葉だった。


「はい」


 リリーナは短く答えた。

 急かさなかった。続きを求めなかった。

 それだけで、今は十分だった。


 ◇ ◇ ◇


 図書室を出たとき、廊下は授業中で静かだった。

 並んで歩きながら、リリーナはふと思った。


(アーレン、か)


 まだ口には出していない。本名で呼ぶのは、もう少し後でいい気がした。

 アレスが――アーレンが、隣を歩いている。いつもより少しだけ背筋が立っているような気がしたが、気のせいかもしれなかった。

 廊下の窓から、青い空が見えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ