13 同行します
三日後、アーレンがリリーナの部屋の扉をノックした。
朝の七時より前だった。リリーナがまだ支度中に、控えめなノックが三回。扉を開けると、アーレンが立っていた。
制服を――ちゃんと着ていた。前髪は相変わらず顔を覆っているが、シャツのボタンは上まで留まっていて、上着も羽織っている。リリーナがいつも起こしに行くときの「かろうじて着ている」とは、明らかに違う着方だった。
「……起きていたか」
「はい。珍しいですね、あなたがこちらに来るのは」
「……来てはいけないか」
「そんなことはありません。どうぞ」
テシアは早朝の自主練習があるとかで、部屋はリリーナ一人だった。アーレンは部屋に入らず、扉口に立ったまま廊下を向いた。
「決めた」
短く言った。
「王宮へ戻る」
リリーナは手に持っていたヘアピンを置いた。
「呪いのことを諦めていた。継承争いからも逃げていた。それをずっと――」
アーレンが止まった。
「恥じていたのかどうかも、よく分からなかった。分からないふりをしていたのかもしれない」
「アレスさん」
「アーレンだ」
リリーナは少し、目を瞬かせた。
「……そちらで呼んでいい」
「……では、アーレン」
初めて名前を呼んだ。アーレンの肩が、かすかに動いた。
「王宮へ戻って、父王に話をする。王位継承権はいらないとはっきり伝える。それから、呪いを解く手段を探す。このまま逃げていても、いつかは追い詰められる。それなら――」
「向かい合う方がいい」
リリーナが続けると、アーレンが黙った。
「それを言いたかったのですか」
「……そうだ」
「そうですね」
リリーナはうなずいた。それから、クローゼットを開けた。
「何をしている」
「荷造りです」
「……何の」
「同行します」
アーレンが、固まった。
「俺は一人で行くと言った」
「言っていません。『王宮へ戻る』とだけ言いました」
「お前は関係ない」
「あります」
リリーナはてきぱきと着替えを鞄に入れながら、振り向かずに言った。
「私は学園長から、あなたの教育係を任されています。あなたが卒業するまで、その責任があります。卒業前に王宮へ行くなら、私も行きます」
「屁理屈だ」
「筋の通った理屈です」
「危険だと言っている」
「刺客にはすでに遭遇しました」
「だからだ」
「だからこそ、一人で行かせられません」
リリーナは鞄を持ち上げて、アーレンの方を向いた。
「あなたが一人で行って、何かあったら――」
言いかけて、止めた。
何かあったら、という続きが、うまく言葉にならなかった。
(何かあったら、どうするの)
自分の中にある感情の輪郭を、リリーナは少しだけ確かめた。心配、というには少し重い。でも今はその名前をつけなくていいと思った。
「行きたいんです」
代わりに、そう言った。
「理由は後でゆっくり考えます。でも今は、行きたい。それじゃ駄目ですか」
アーレンが、しばらく動かなかった。
「……お前は」
「何ですか」
「本当に、よく分からない人間だな」
「よく言われます」
「貶していない」
「知っています」
またそのやり取りになった。リリーナは少し笑って、鞄の留め具を閉めた。
◇ ◇ ◇
学園長への説明は、リリーナが行った。
「アーレン――アレスの身分と事情を知った、共に王宮へ向かう必要がある」と話すと、学園長は丸眼鏡の奥の目を細めて、しばらくリリーナを見た。
「……なるほど」
それだけ言って、眼鏡を外して拭いた。何かを考えている顔だった。
「アレス君が王子だということは、私は知りませんでした」
「はい」
「ただ――」
学園長は眼鏡をかけ直した。
「この学園には、学外活動という制度があります。正当な理由があれば、学習の一環として学外へ出ることができる。書類を用意します。二人で、堂々と正門から出なさい」
リリーナは一拍置いてから、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいい」
学園長は小さく手を振った。
「ただ一つだけ」
「はい」
「必ず戻ってきなさい。二人とも」
リリーナは顔を上げた。学園長の目が、眼鏡越しに真っすぐこちらを見ていた。
「……はい」
◇ ◇ ◇
馬車は午後に出た。
学園の正門を出ると、石畳の道が王都の方向へ続いている。王宮まではおよそ四時間の道のりだと、アーレンの側近――身分を知る数少ない一人で、「カイ」という名の青年――が教えてくれた。カイは先に馬で向かい、王宮側の準備を整えるという。
馬車の中は二人きりだった。
向かい合って座っている。アーレンは窓の外を見ていた。前髪が揺れるたびに、鼻筋の輪郭がわずかに見えた。
しばらく、どちらも喋らなかった。
石畳の振動が、馬車の底から伝わってくる。遠ざかっていく学園の尖塔が、窓の外に小さくなっていった。
「なぜそこまでする」
アーレンが、窓から目を離さないまま言った。
「屁理屈は聞いた。本当の理由を聞いている」
リリーナは少し考えた。
本当の理由。自分でも、さっきうまく言葉にできなかったものを、今ここで説明できるかどうか分からない。
「さあ?」
笑いながら、そう答えた。
アーレンが、窓から視線をこちらに動かした。前髪の向こうで、目がこちらを向いている気配がした。
「さあ、とは」
「まだ言葉になっていないので。言葉になったら教えます。そのほうが誠実だと思うので」
アーレンが黙った。
しばらくして、また窓の外を向いた。
「……急かさない」
「分かっています」
「ただ、一つだけ言っておく」
アーレンの声が、少し低くなった。
「お前を危険な目に遭わせるつもりはない。今朝のようなことは、二度と起こさない」
リリーナは少し驚いた。
「それは――謝っているんですか」
「……事実を言っている」
「そう聞こえませんでしたが」
「事実だ」
リリーナは窓の外を見た。道の両側に、秋の枯れ草が続いている。空は高く、雲がゆっくりと流れていた。
「謝らなくていいです。あなたのせいじゃないので」
「お前が巻き込まれたのは俺のそばにいたからだ」
「私がいたいからいたんです」
アーレンが黙った。
「今もそうです」
リリーナは付け加えた。
それ以上は言わなかった。アーレンも、何も言わなかった。
馬車は静かに、王都への道を走っていく。
窓の外を流れる景色の中に、そろそろ見慣れない家並みが増えてきた。学園のある街から外れて、もう少し先に進めば、王宮のある王都に入る。
リリーナは膝の上で手を組んだ。
(言葉になったら……)
心の中で、もう一度そう思った。
今はまだ、輪郭だけがある感情だった。でもそれが何かは、少しずつ、分かってきていた。




