23 心配した
アーレンは壁に手をつき、膝が笑っているように見えた。
しかも、血の気が引いた顔で、額に汗を浮かべて。前髪が乱れて、半分ほど顔が見えていた。それでも、目だけは——
まっすぐ、側妃を見ていた。
「アーレン!」
リリーナが、思わず声を出した。
「……来るな」
アーレンが、低い声で言った。リリーナに向けた言葉だった。
側妃が、術式石を握りしめる。
「来ましたか。ちょうどいい——」
「エリザ・ヴォルト」
アーレンは側妃の言葉を遮り、名前を呼ぶ。
「それを使えば、俺はここで眠る。だが、使う前に言っておく」
「何を」
「父上はすでに動いている。今頃、西翼は魔法師団に押さえられている。お前の専属魔法師ルードも、今夜捕まった。証拠も揃っている。術式石を使えば、お前が呪いをかけた証拠がさらに一つ増えるだけだ」
側妃の顔が、固まった。
「それでも使うなら——お前の息子が、何を言われるか考えた方がいい」
室内が静まる。
側妃が術式石とアーレンを交互に見る。そして、また石を見た。
その間にも——アーレンの膝が、揺れていた。
リリーナには分かった。呪いが来ている。今この瞬間も、意識を引きずり込もうとしていて、それに抗いながら立って、話しているのがわかる。
(アーレン)
誰もが側妃を見ていた。
やがて――側妃は、ゆっくりと手を下ろした。
術式石が、石室の床に落ちる乾いた音が響く。
その瞬間、何かが変わった。
空気が変わった、というのとは少し違う。リリーナには言葉にできなかったが——
何かが、ほどけた感じがした。長い間、張り詰めていたものが。
アーレンが、壁から手を離し、倒れるかと思ったが、倒れず、そのままゆっくりと、前髪に手を当てた。
そして、前髪を、払いのけた。
顔が、全部見えた。
高い鼻梁。均整の取れた輪郭。汗で濡れた額。そして——目。
金色だった。
夕暮れの隙間から一瞬だけ見えた色でも、刺客の後に乱れて見えた色でも、もうなかった。何も隔てるものなしに、正面から、はっきりと。
深く澄んだ黄金色が、まっすぐリリーナを見ていた。
(きれい……)
いや、きれいという言葉では足りないと思った。
今まで前髪の向こうに隠れていたものが、今ここで全部見えている。目の色だけではなく——
この人が、どういう顔をしてリリーナを見るか、が。
(ああ……)
何かが、また落ちた。
さっきより大きく、さっきより深く。
言葉になっていなかった最後の一つが、今、形になった。
好きだ、とアーレンが言った夜のことを思い出した。
「今すぐ同じ言葉を返せるかは分からない」と言った自分の言葉を。
「たぶん、もう分かっています」と言った自分の言葉を。
たぶん、ではなかった。
ずっと前から、分かっていた。
「リリーナ」
アーレンが、歩いてきた。倒れそうな足取りで、でも真っすぐこちらに。
「怪我は」
「ありません」
「そうか」
目の前に来て、止まった。
金色の目が、近くにあった。
「……心配した」
静かな声だった。感情を絞り出すような言い方だった。
「こんなに心配したのは——」
アーレンが、少し言葉を止めた。
「初めてだ」
リリーナは、アーレンの顔を見た。
前髪がない。隠すものがない。こんなに近くで、こんなにはっきりと、この顔を見たのは初めてだった。
「アーレン」
「何だ」
「好きです」
言っていた。今度は「気づいたら」ではなく、ちゃんと分かって、選んで、言った。
アーレンの動きが止まった。
それから——
前髪のない顔が、ほんの少し、ほころんだ。
「……知っている」
笑顔というほどではない。眉が下がって、目の力が抜けた、ほんの一瞬の表情だった。
でもリリーナには、はっきりと見えて、思わず見惚れた。
「……今、初めて言いましたよ?」
「前から分かっていた」
アーレンが、小さくうなずきながら言った。
石室の扉の外から、カイの声がした。
「……殿下、よろしいですか」
「入れ」
「魔法師団が西翼を押さえました。側妃の捕縛が——」
カイが部屋に入ってきて、一瞬だけアーレンの顔を見て、目を丸くした。
そして素早く視線を戻した。優秀な側近だった。
「——捕縛の準備が整っています」
「分かった。行く」
アーレンがリリーナを振り向いた。
「来るか」
「はい」
「足は」
「痺れていましたが、もう大丈夫です」
「……無理するな」
「していませんよ」
アーレンが、リリーナの手を取る。
指と指が、絡んだ。
リリーナは一瞬だけ、その手を見た。
アーレンは前を向いており、前髪がなくて、耳が少し赤いのが見えた。
(前髪がなければ、すぐ分かる……)
そう思ったが、声には出さなかった。
石室を出て、カイが先を行く後ろをアーレンとリリーナは並んで歩いた。
手を繋いだまま。
廊下に出ると、空気が変わった。石室の閉じた空気ではなく、夜の広い空気だった。
遠くで、何かが終わっていく音がした。




