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婚約破棄された世話焼き令嬢は、隣国で問題児に捕まりました  作者: ミナト


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23/25

23 心配した

 アーレンは壁に手をつき、膝が笑っているように見えた。

 しかも、血の気が引いた顔で、額に汗を浮かべて。前髪が乱れて、半分ほど顔が見えていた。それでも、目だけは——

 まっすぐ、側妃を見ていた。


「アーレン!」


 リリーナが、思わず声を出した。


「……来るな」


 アーレンが、低い声で言った。リリーナに向けた言葉だった。

 側妃が、術式石を握りしめる。


「来ましたか。ちょうどいい——」

「エリザ・ヴォルト」


 アーレンは側妃の言葉を遮り、名前を呼ぶ。


「それを使えば、俺はここで眠る。だが、使う前に言っておく」

「何を」

「父上はすでに動いている。今頃、西翼は魔法師団に押さえられている。お前の専属魔法師ルードも、今夜捕まった。証拠も揃っている。術式石を使えば、お前が呪いをかけた証拠がさらに一つ増えるだけだ」


 側妃の顔が、固まった。


「それでも使うなら——お前の息子が、何を言われるか考えた方がいい」


 室内が静まる。

 側妃が術式石とアーレンを交互に見る。そして、また石を見た。

 その間にも——アーレンの膝が、揺れていた。

 リリーナには分かった。呪いが来ている。今この瞬間も、意識を引きずり込もうとしていて、それに抗いながら立って、話しているのがわかる。


(アーレン)


 誰もが側妃を見ていた。


 やがて――側妃は、ゆっくりと手を下ろした。

 術式石が、石室の床に落ちる乾いた音が響く。

 その瞬間、何かが変わった。

 空気が変わった、というのとは少し違う。リリーナには言葉にできなかったが——

 何かが、ほどけた感じがした。長い間、張り詰めていたものが。


 アーレンが、壁から手を離し、倒れるかと思ったが、倒れず、そのままゆっくりと、前髪に手を当てた。

 そして、前髪を、払いのけた。

 顔が、全部見えた。

 高い鼻梁。均整の取れた輪郭。汗で濡れた額。そして——目。

 金色だった。

 夕暮れの隙間から一瞬だけ見えた色でも、刺客の後に乱れて見えた色でも、もうなかった。何も隔てるものなしに、正面から、はっきりと。

 深く澄んだ黄金色が、まっすぐリリーナを見ていた。


(きれい……)


 いや、きれいという言葉では足りないと思った。

 今まで前髪の向こうに隠れていたものが、今ここで全部見えている。目の色だけではなく——

 この人が、どういう顔をしてリリーナを見るか、が。


(ああ……)


 何かが、また落ちた。

 さっきより大きく、さっきより深く。

 言葉になっていなかった最後の一つが、今、形になった。

 好きだ、とアーレンが言った夜のことを思い出した。


 「今すぐ同じ言葉を返せるかは分からない」と言った自分の言葉を。

 「たぶん、もう分かっています」と言った自分の言葉を。


 たぶん、ではなかった。

 ずっと前から、分かっていた。


「リリーナ」


 アーレンが、歩いてきた。倒れそうな足取りで、でも真っすぐこちらに。


「怪我は」

「ありません」

「そうか」


 目の前に来て、止まった。

 金色の目が、近くにあった。


「……心配した」


 静かな声だった。感情を絞り出すような言い方だった。


「こんなに心配したのは——」


 アーレンが、少し言葉を止めた。


「初めてだ」


 リリーナは、アーレンの顔を見た。

 前髪がない。隠すものがない。こんなに近くで、こんなにはっきりと、この顔を見たのは初めてだった。


「アーレン」

「何だ」

「好きです」


 言っていた。今度は「気づいたら」ではなく、ちゃんと分かって、選んで、言った。


 アーレンの動きが止まった。

 それから——

 前髪のない顔が、ほんの少し、ほころんだ。


「……知っている」


 笑顔というほどではない。眉が下がって、目の力が抜けた、ほんの一瞬の表情だった。

 でもリリーナには、はっきりと見えて、思わず見惚れた。


「……今、初めて言いましたよ?」

「前から分かっていた」


 アーレンが、小さくうなずきながら言った。

 石室の扉の外から、カイの声がした。


「……殿下、よろしいですか」

「入れ」

「魔法師団が西翼を押さえました。側妃の捕縛が——」


 カイが部屋に入ってきて、一瞬だけアーレンの顔を見て、目を丸くした。

 そして素早く視線を戻した。優秀な側近だった。


「——捕縛の準備が整っています」

「分かった。行く」


 アーレンがリリーナを振り向いた。


「来るか」

「はい」

「足は」

「痺れていましたが、もう大丈夫です」

「……無理するな」

「していませんよ」


 アーレンが、リリーナの手を取る。

 指と指が、絡んだ。

 リリーナは一瞬だけ、その手を見た。

 アーレンは前を向いており、前髪がなくて、耳が少し赤いのが見えた。


(前髪がなければ、すぐ分かる……)


 そう思ったが、声には出さなかった。


 石室を出て、カイが先を行く後ろをアーレンとリリーナは並んで歩いた。

 手を繋いだまま。

 廊下に出ると、空気が変わった。石室の閉じた空気ではなく、夜の広い空気だった。

 遠くで、何かが終わっていく音がした。


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