16 婚約者
父王からの正式な書状が届いたのは、王宮に滞在して三日目の朝だった。
アーレンの部屋に届けられた書状を、二人で並んで読む。内容は簡潔だった。
――王位継承権の放棄を認める。アーレン・ヴェルト・ケセルトは第三王子の身分を保ったまま、学園卒業後にグランシアへ渡ることを許可する。リリーナ・エルフォードとの婚約は、両家の合意を経た上で正式に締結することとする。呪いの解呪については王宮魔法師団が協力する。――
「……思ったより、あっさりしていますね」
「父上はそういう人だ。言うべきことは謁見の間で全部言う。書状は確認のためのものだ」
「なるほど」
リリーナは書状をテーブルに置いた。
婚約が、正式に。
その言葉の重さを、もう一度確かめる。
一度目の婚約は気づいたら始まっていて、気づいたら終わっていた。
今度は、自分が「逃げません」と言った上で、始まるものだった。
同じ婚約という言葉でも、まったく違うものだと思った。
「リリーナ」
「はい」
「これで正式に、お前は俺の婚約者だ」
「……はい、そうなりますね」
「分かっているか」
「分かっています」
「本当に分かっているか」
リリーナはアーレンを見る。
「どういう意味ですか」
「逃げても無駄だということが、分かっているかと聞いている」
リリーナは一拍置いた。
「……逃げないと言いました」
「言った。ただ、念のため言っておく」
アーレンは静かに、しかしはっきりと言った。
「逃げようとしても無駄だ」
リリーナは返す言葉を探した。
探したが、見つからなかった。
アーレンがこちらを向いている。前髪で目は見えないが、気配がはっきりとこちらを向いているのがわかる。今まで誰とも関わろうとしなかった人間が、今は真正面からこちらに向いている。
その重さが、じわりと伝わってきた。
「……分かりました」
そう答えると、アーレンが、小さく――本当に小さくだったが――鼻で息をした。
呆れているのか、安堵しているのか、判断がつかない音だった。
◇ ◇ ◇
翌日から、何かが変わった。
具体的に何が、と言われると難しい。ただ、アーレンの「いる」距離が変わった。
朝食に、現れるようになった。今まで食堂に来ない日の方が多かったのに、リリーナが席に着くと少し遅れてアーレンが来て、斜め向かいに座る。何も言わずに食べて、何も言わずに出ていく。でも来る。
廊下を歩くとき、少し後ろをついてくるようになった。リリーナが別の方向へ行こうとすると――
「どこへ行く」
と聞いてくる。
「図書室です」
「……俺も行く」
「本を探すんですか」
「そうだ」
図書室でアーレンが本を探す気配はなかったが、隣の椅子に座って、黙ってリリーナが調べ物をするのを見ていた。
三日目に、リリーナは聞いてみた。
「監視しているんですか」
「違う」
「では何ですか」
「……いる」
「いる、だけですか」
「それの何が問題だ」
問題はない。ただ、心臓が少し落ち着かなかっただけで。
◇ ◇ ◇
王宮の魔法師団との打ち合わせは、五日目に行われた。
眠りの呪いの種類と発症のタイミングから、術者の特定を進めるという内容で、アーレンが詳細を説明し、魔法師団の長が記録を取る。リリーナは同席して、学園での発症パターンを補足した。
「毎回、どのくらいの間隔で?」
「授業中であれば、だいたい一時間に一度か二度、強制的に意識が落ちます。それとは別に、深く引きずり込まれるときがあって――そのときは何をしても起きません」
「二段階あるということか」
「そう見えました。浅い方は無理やり引き戻せますが、深い方は本人が自然に目覚めるのを待つしかないようで」
魔法師団の長が、アーレンと視線を交わす。
「長期間かけて蓄積されたタイプの呪いです。一度で強くかけるのではなく、少しずつ積み重ねて効果を強化する手法――これを施せる術者は、王宮の中でも限られます」
「絞れますか」
「絞れます。ただ、断定には証拠が必要です」
「進めてくれ」
アーレンの声は穏やかだったが、指示に慣れた声だった。学園でのぼんやりした声とは、やはり違う。
打ち合わせが終わり、廊下に出たとき、リリーナはアーレンに聞いた。
「少し聞いていいですか」
「何だ」
「王宮にいるときのあなた、学園のときと全然違いますね」
アーレンが止まった。
「……どちらが本当のあなたですか」
「両方だ」
「両方……」
「学園のあれは、力が抜けすぎていた。こっちは……締めすぎている、かもしれない」
リリーナは少し考えた。
「では、どちらが楽ですか」
「……」
アーレンは答えなかった。だが、少しして――
「お前といるとき」
と言った。
リリーナは止まりそうになる息を、なんとかした。
「それは、どちらでもないということですか」
「そうだ」
「……そうですか」
「何か問題か」
「いいえ」
問題はなかった。ただ、この会話を処理するのに少し時間がかかっただけで。




