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婚約破棄された世話焼き令嬢は、隣国で問題児に捕まりました  作者: ミナト


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15/25

15 逃げません

 謁見の間に再び緊張が走る。さっきとはまったく別物の緊張だったが。

 王が、ゆっくりとリリーナを見たが、リリーナは前を向いたまま、動けなかった。


(聞いていない。一言も聞いていない。今初めて聞いた。今この場で初めて)

「……娘」


 王が言った。


「……はい」


 リリーナは努めて平静に答えた。


「アーレンとは、どういう間柄なんだ」

「……教育係です」

「そうらしいな。他には」

「……」


 リリーナはアーレンを見た。アーレンは前を向いていた。前髪の向こうで、何を考えているのかまったく読めなかった。


「アーレン」


 リリーナは小声で言った。


「何ですか、今のは」

「事実だ」

「私は何も――」

「決めた」


 アーレンが、静かに言った。


「俺が決めた」

「そういう問題では――」

「決めた」


 繰り返した。それ以上でも以下でもなく、ただそれだけを言った。

 退路を断った人間の声だった。

 リリーナは口を開いて――閉じた。

 王が、小さく笑った。今度ははっきり分かる笑い方だった。


「なるほど」


 王は言った。


「アーレン、お前がそういう顔をするのは初めて見た」

「……どういう顔ですか」

「自分で決めた顔だ」


 アーレンが黙った。

 王はリリーナを見た。リリーナは今さら視線を逸らす余裕もなく、まっすぐ王を見ていた。


「娘、名前を」

「リリーナ・エルフォードと申します」

「グランシアの侯爵家か」

「はい」

「アーレンのことを、どう思う」


 唐突な問いだった。

 リリーナは少し考えた。正直に答えるべきか、無難に答えるべきか――いや、この王に無難な答えが通じる気がしなかった。


「頭がよくて、不器用で、頑固で――もったいない人だと思っています」


 王が、また小さく笑った。


「もったいない、とは」

「抱えているものを全部一人で片づけようとするところが、です。人に頼むことを覚えた方がいいと思っています」

「それはお前が手伝うのか」

「……やめた方がいいと言われたら、やめますが」


 リリーナはちらりとアーレンを見た。

 アーレンは前を向いたままだった。前髪の向こうが、少し赤いような気がした。


「やめろとは言っていない」


 ぼそりと言った。


「……言っていない」


 もう一度、確認するように繰り返した。

 リリーナは前を向いた。心臓が、じわりと速くなった。


「なるほど」


 王が、もう一度言った。今度は少し違う重さがあった。


「アーレン」

「はい」

「学園を卒業したら、グランシアへ渡れ。そのことについては、追って話す」

「……承知しました」

「娘も、しばらくはここに滞在するか? 呪いの件は、こちらでも調べさせる」


 リリーナは一拍置いてから、


「お言葉に甘えて」


 と答えた。

 王がうなずいた。謁見はそれで終わった。


 ◇ ◇ ◇


 謁見の間を出て、廊下に出たとき――リリーナはアーレンの袖を引っ張った。

 カイが前を歩いていて、少し距離がある。


「アーレン」

「何だ」

「さっきのは、どういうつもりですか」

「言った通りだ」

「聞いていませんでした、一言も」

「これから言うつもりだった」

「順番が逆です」

「……結果は同じだ」

「そういう問題では――」

「リリーナ」


 アーレンが、立ち止まった。

 リリーナも止まる。

 アーレンがこちらを振り向く。廊下の窓から差し込む光の中で、前髪がわずかに揺れた。


「逃げるつもりなら言え」


 声は静かだった。


「……好きだ」


 リリーナの息が、止まった。


「順番が逆だったのは分かっている。父上の前で言うべきではなかったかもしれない。ただ――」


 アーレンが、少し間を置いた。


「言わなければ、また機会を逃す気がした」


 廊下の窓から差し込む光が、アーレンの前髪を縁取っていた。前髪の向こうで、目がまっすぐこちらを向いている気配がした。


「だから言う。好きだ。お前のことが」


 リリーナは動けなかった。

 さっきの謁見の間でのことが、頭の中を回る。決めた、と言った声。退路を断った声。王に「自分で決めた顔だ」と言われて黙っていた横顔。そして今――

 また機会を逃す気がした、と言ったこの人が、ずっと言えなかったものを今ここで言っている。


(ああ)


 何かが、すとんと落ちた。

 言葉になっていなかったものの輪郭が、一瞬でくっきりとした。馬車の中で「言葉になったら教える」と言った。まだ分からないと思っていた。

 でも、分かっていたのかもしれない。ずっと前から、少しずつ。


「逃げないなら――俺は、諦めない」


 リリーナは一拍置いて答える。アーレンをまっすぐに見つめて。


「……逃げません」


 リリーナは続けた。自分の声が、少し震えている気がした。


「今すぐ同じ言葉を返せるかは、まだ分かりません。……でも、逃げません。それだけは本当です。あなたのそばにいたいと思っています。それが何なのかは――たぶん、もう分かっています」

「……たぶん、ではなく」

「分かっています」


 少しの間があった。

 アーレンが、短く息を吐いた。今度は覚悟の音ではなく、もっと別の――安堵に近い音だった。


「今すぐ言えなくていい」

「言います。言葉になったら」

「急かしていない」

「知っています」

「ただ」


 アーレンが、もう一度言った。


「逃げるつもりなら、今のうちに言え。あとでは遅い」

「遅い、とはどういう意味ですか」

「その時には手放さないということだ」


 リリーナはまた一拍置いてから、


「……分かりました」


 と言った。

 アーレンがもう前を向いていた。廊下を歩き始めている。


(あぁ、もう……)


 リリーナは息を整えた。

 心臓が、まだ速かった。けれど今度の速さは、さっきまでとは少し種類が違った。


 「好きだ」と言われた言葉が、まだ耳の奥にあった。

 「逃げません」と言った自分の声も。


 それがどういう意味か――もう、知らないふりはできなかった。

 リリーナはアーレンの後を追った。一歩分だけ、さっきより距離を縮めて。


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