15 逃げません
謁見の間に再び緊張が走る。さっきとはまったく別物の緊張だったが。
王が、ゆっくりとリリーナを見たが、リリーナは前を向いたまま、動けなかった。
(聞いていない。一言も聞いていない。今初めて聞いた。今この場で初めて)
「……娘」
王が言った。
「……はい」
リリーナは努めて平静に答えた。
「アーレンとは、どういう間柄なんだ」
「……教育係です」
「そうらしいな。他には」
「……」
リリーナはアーレンを見た。アーレンは前を向いていた。前髪の向こうで、何を考えているのかまったく読めなかった。
「アーレン」
リリーナは小声で言った。
「何ですか、今のは」
「事実だ」
「私は何も――」
「決めた」
アーレンが、静かに言った。
「俺が決めた」
「そういう問題では――」
「決めた」
繰り返した。それ以上でも以下でもなく、ただそれだけを言った。
退路を断った人間の声だった。
リリーナは口を開いて――閉じた。
王が、小さく笑った。今度ははっきり分かる笑い方だった。
「なるほど」
王は言った。
「アーレン、お前がそういう顔をするのは初めて見た」
「……どういう顔ですか」
「自分で決めた顔だ」
アーレンが黙った。
王はリリーナを見た。リリーナは今さら視線を逸らす余裕もなく、まっすぐ王を見ていた。
「娘、名前を」
「リリーナ・エルフォードと申します」
「グランシアの侯爵家か」
「はい」
「アーレンのことを、どう思う」
唐突な問いだった。
リリーナは少し考えた。正直に答えるべきか、無難に答えるべきか――いや、この王に無難な答えが通じる気がしなかった。
「頭がよくて、不器用で、頑固で――もったいない人だと思っています」
王が、また小さく笑った。
「もったいない、とは」
「抱えているものを全部一人で片づけようとするところが、です。人に頼むことを覚えた方がいいと思っています」
「それはお前が手伝うのか」
「……やめた方がいいと言われたら、やめますが」
リリーナはちらりとアーレンを見た。
アーレンは前を向いたままだった。前髪の向こうが、少し赤いような気がした。
「やめろとは言っていない」
ぼそりと言った。
「……言っていない」
もう一度、確認するように繰り返した。
リリーナは前を向いた。心臓が、じわりと速くなった。
「なるほど」
王が、もう一度言った。今度は少し違う重さがあった。
「アーレン」
「はい」
「学園を卒業したら、グランシアへ渡れ。そのことについては、追って話す」
「……承知しました」
「娘も、しばらくはここに滞在するか? 呪いの件は、こちらでも調べさせる」
リリーナは一拍置いてから、
「お言葉に甘えて」
と答えた。
王がうなずいた。謁見はそれで終わった。
◇ ◇ ◇
謁見の間を出て、廊下に出たとき――リリーナはアーレンの袖を引っ張った。
カイが前を歩いていて、少し距離がある。
「アーレン」
「何だ」
「さっきのは、どういうつもりですか」
「言った通りだ」
「聞いていませんでした、一言も」
「これから言うつもりだった」
「順番が逆です」
「……結果は同じだ」
「そういう問題では――」
「リリーナ」
アーレンが、立ち止まった。
リリーナも止まる。
アーレンがこちらを振り向く。廊下の窓から差し込む光の中で、前髪がわずかに揺れた。
「逃げるつもりなら言え」
声は静かだった。
「……好きだ」
リリーナの息が、止まった。
「順番が逆だったのは分かっている。父上の前で言うべきではなかったかもしれない。ただ――」
アーレンが、少し間を置いた。
「言わなければ、また機会を逃す気がした」
廊下の窓から差し込む光が、アーレンの前髪を縁取っていた。前髪の向こうで、目がまっすぐこちらを向いている気配がした。
「だから言う。好きだ。お前のことが」
リリーナは動けなかった。
さっきの謁見の間でのことが、頭の中を回る。決めた、と言った声。退路を断った声。王に「自分で決めた顔だ」と言われて黙っていた横顔。そして今――
また機会を逃す気がした、と言ったこの人が、ずっと言えなかったものを今ここで言っている。
(ああ)
何かが、すとんと落ちた。
言葉になっていなかったものの輪郭が、一瞬でくっきりとした。馬車の中で「言葉になったら教える」と言った。まだ分からないと思っていた。
でも、分かっていたのかもしれない。ずっと前から、少しずつ。
「逃げないなら――俺は、諦めない」
リリーナは一拍置いて答える。アーレンをまっすぐに見つめて。
「……逃げません」
リリーナは続けた。自分の声が、少し震えている気がした。
「今すぐ同じ言葉を返せるかは、まだ分かりません。……でも、逃げません。それだけは本当です。あなたのそばにいたいと思っています。それが何なのかは――たぶん、もう分かっています」
「……たぶん、ではなく」
「分かっています」
少しの間があった。
アーレンが、短く息を吐いた。今度は覚悟の音ではなく、もっと別の――安堵に近い音だった。
「今すぐ言えなくていい」
「言います。言葉になったら」
「急かしていない」
「知っています」
「ただ」
アーレンが、もう一度言った。
「逃げるつもりなら、今のうちに言え。あとでは遅い」
「遅い、とはどういう意味ですか」
「その時には手放さないということだ」
リリーナはまた一拍置いてから、
「……分かりました」
と言った。
アーレンがもう前を向いていた。廊下を歩き始めている。
(あぁ、もう……)
リリーナは息を整えた。
心臓が、まだ速かった。けれど今度の速さは、さっきまでとは少し種類が違った。
「好きだ」と言われた言葉が、まだ耳の奥にあった。
「逃げません」と言った自分の声も。
それがどういう意味か――もう、知らないふりはできなかった。
リリーナはアーレンの後を追った。一歩分だけ、さっきより距離を縮めて。




