EP 8
世界史の書き換え――誰も泣かない黄金の国
昭和16年(1941年)冬。
帝国ホテルでの「世紀の調印式」を終え、列強のトップたちを乗せた車列が去った夜。
帝都・東京、首相官邸の総理執務室。
そこには、ただ一人、デスクの奥で深く椅子に腰掛ける近衛文麿(若林幸隆)の姿があった。
机の上には、アメリカ大統領とイギリス首相の署名が入った講和条約書の原本が無造作に置かれている。
世界最強の超大国が、一発の弾も撃つことなく、極東の島国に完全降伏した証明。
歴史上、これほどまでに圧倒的で、そして無血の勝利を収めた指導者は存在しない。
だが、誰もいない執務室で一人きりになった幸隆の顔からは、列強を震え上がらせたあの『ドス黒い修羅の笑み』は完全に消え失せていた。
カチャリ、と。
幸隆は、備前焼のぐい呑みに日本酒を注ごうとした。
しかし、その大きな手は、まるで壊れた機械のようにガタガタと小刻みに震えており、酒が机にこぼれてしまった。
「……あ、ああっ……」
幸隆の喉の奥から、絞り出すような、ひどく掠れた声が漏れた。
彼の脳裏にフラッシュバックするのは、未来から持ってきた『史実の記憶』だった。
燃え盛る東京大空襲の炎。
特攻隊として散っていく若者たちの笑顔。
そして、愛する故郷・広島と、長崎に落とされる二つの悪魔の火(原子爆弾)。
数百万の命が理不尽に奪われ、国が灰燼に帰すという、絶対に書き換えなければならなかった最悪のトラウマ。
「……ワシは……」
幸隆は、両手で顔を覆った。
「ワシは、ついに……あのクソみたいな歴史を、完全にぶっ壊してやったんじゃ……!!」
ポタッ、と。
書類の上に、大粒の雫が落ちた。
血も涙もない悪党政治家として、一人で地獄の泥を被り続けてきた男の目から、初めて止めどない涙が溢れ出していた。
誰にも理解されない未来の知識を抱え、たった一人で世界を敵に回す恐怖。
一歩でも選択を間違えれば、この国が滅びるという異常なプレッシャー。
そのすべてから解放された安堵感が、幸隆の鉄の精神を決壊させたのだ。
「……ううッ……!!」
幸隆が、声を出して泣き崩れた、その時。
「……幸隆さん」
執務室のドアが静かに開き、日野輝夜が足音もなく歩み寄ってきた。
彼女は、世界を圧倒した『特命全権大使』のドレス姿ではなく、いつもの質素で温かみのあるスーツ姿に戻っていた。
「輝夜……ワシは……ワシは……ッ」
「はい。わかっています」
輝夜は、震える幸隆の大きな背中に、そっと両手を回した。
「あなたは今日、数百万人の命を……燃えるはずだった街を、落ちるはずだった爆弾を、すべて消し去ってくれたのですね。……本当に、本当によく頑張りましたね」
輝夜の言葉は、ただの労いではなかった。
幸隆がどれほどの地獄を背負ってこの盤面を作り上げたのか、隣でずっと見てきた彼女だからこそ言える、魂の底からの肯定だった。
「……おどれがおらんかったら、ワシは途中で潰れとった」
幸隆は、輝夜の手を強く握り返した。
「ワシが裏でどれだけ泥を被ろうが、お前が『光』として前を向いてくれとったから……ワシは迷わずに、覇道を突き進めたんじゃ」
「私も同じです。あなたが泥の盾になってくれたから、私は私の信じる『王道』を貫けた」
輝夜は、優しく微笑み、幸隆を促して窓辺へと歩いた。
「見てください、幸隆さん」
二人が窓を開けると、そこには、史実なら灯火管制で真っ暗になっているはずの帝都・東京の夜景が、宝石箱のように眩く光り輝いていた。
街には蓄音機から流れる流行歌が響き、屋台で熱燗を飲む労働者たちの笑い声が、風に乗って微かに聞こえてくる。
「……ええ街じゃろう」
幸隆は、涙を拭い、愛用の『ピース』に火を点けた。
「はい。世界で一番、美しくて温かい国です」
輝夜は、幸隆の肩にそっと頭を預けた。
最強の悪党政治家と、世界を救う聖女。
二人のチートプレイヤーが、未来の知識と、決して折れない強い意志(愛)で作り上げた『パクス・ジャポニカ』。
誰も飢えず、誰も理不尽な死を迎えない。
世界中が羨む、黄金の時代の完全なる夜明け。
「……さあ、まだまだ仕事は山積みじゃぞ、輝夜。この平和な国を、百年先まで持たせるための『土台作り』が残っとる」
「ふふ。鬼の総理大臣は、人使いが荒いですね」
二人は、光り輝く帝都の夜景を見下ろしながら、同じ歩幅で、これからも共に泥まみれの王道を歩き続けることを静かに誓い合った。
大日本帝國を救うための彼らの戦いは、歴史の大きな壁を越え、ここからまた新たな輝きを放ち始めるのである。




