EP 5
牢獄への強行突破――ガラス越しの宣戦布告
昭和15年(1940年)冬。
深夜の帝都。東條英機が管轄する憲兵隊本部・特別地下監房への階段を、二つの影が静かに、だが確かな足音を立てて下りていた。
近衛文麿(若林幸隆)と、日野輝夜。
護衛はおろか、東條にすら一切の連絡を入れない、完全なアポなしの「強行突破」である。
地下三階、特別面会室の前の廊下。
そこで警備に当たっていた若い看守(加藤巡査)は、暗闇からヌッと現れた長身の男の顔を見て、心臓が止まるかと思うほど驚愕した。
「そ、そそそ、総理!? なぜ、このような深夜に……ッ!!」
「どけ」
幸隆は、ドス黒いオーラを纏った三白眼で看守を一瞥した。
それだけで、加藤巡査は蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまい、声すら出せなくなった。
幸隆は、面会室の重厚な鉄のドアを、蹴り破るほどの勢いで開け放った。
「……おどれ、ここで何をしとる」
その部屋の中の光景を見て、幸隆は低く唸った。
輝夜もまた、背後からその異様な空間を目の当たりにし、息を呑んだ。
分厚い防弾ガラスで仕切られた面会室の向こう側。本来なら冷たいコンクリートの床と粗末な便器しかないはずの『独房』は、完全に様変わりしていた。
床にはペルシャ絨毯が敷かれ、アンティークの寝椅子が置かれ、机の上には最高級の茶器が並べられている。
そして、その中央に座る赤山天人は、囚人服こそ着ていたが、その佇まいはまるで最高級ホテルのスイートルームで寛ぐ貴族(あるいは王)そのものだった。
「……これは驚きました。まさか、大日本帝國の最高権力者自ら、私の『新しいオフィス』へご足労いただけるとは」
赤山は、看守に淹れさせたであろう最高級の玉露を静かに一口飲み、ガラス越しに完璧な微笑み(UI)を向けた。
「オフィス、じゃと?」
幸隆が、ガラスが割れんばかりの勢いで拳を叩きつけた。
「てめえの仕業か。霞が関のサボタージュも、財閥の資産隠しも。東條の足元をすくって、この地下牢から『影の内閣』を動かしとったんじゃな」
「人聞きの悪い。私はただ、迷える子羊たちに『助言』を与えているだけですよ」
赤山は、湯呑みを置き、一切の悪びれる様子もなく答えた。
「総理。あなたのおかげで、私は最高の環境を手に入れました。ここは、あなたの作ったいかなる法律も、外部からの暗殺も届かない、最強のセキュリティに守られた『安全な玉座』だ。……おまけに、あなたの強すぎる光(統制)から逃げ出した権力者たちが、毎晩、向こうから喜んで私の足元に首輪を差し出しに来てくれる」
赤山の瞳の奥にある『虚無』が、薄暗い面会室の中で不気味に揺らいだ。
「……お前が私をこの地下深く(暗闇)に閉じ込めてくれたからこそ、私は彼らにとっての『神』になれたのですよ」
その言葉に、幸隆の全身から空気が歪むほどの怒気と殺意が立ち昇った。
法律で縛っても、檻に閉じ込めても、この男は人間の「欲」という見えない泥を媒介にして、無限に増殖してくる。
「……赤山。おどれ、本当に人間の心が欠け落ちた化け物じゃな」
「ええ。だからこそ、私は間違えない」
赤山の視線が、幸隆の背後に立つ輝夜へと移った。
「……日野調査官。長野の農村での私の言葉、ようやく理解していただけましたか? 人間は、欲を与えられれば簡単に裏切り、法で縛られれば平気で嘘をつく。……あなたの信じる『誰も見捨てない共同体』など、私の提示する抜け道の前では、砂上の楼閣に過ぎないのです」
アクリル板越しに、赤山は輝夜の「心」をへし折ろうと、冷たい言葉の刃を突き立てた。
だが。
「……いいえ」
輝夜は、幸隆の横に並び立ち、真っ直ぐに赤山の瞳を見据え返した。
彼女の顔には、かつて長野の村で泥まみれになった時と同じ、決して揺るがない『光』が宿っていた。
「人間は確かに弱く、欲に溺れる生き物です。……だからといって、あなたが彼らを暗闇(地下牢)から操り、喰い物にしていい理由にはならない」
輝夜は、ガラスにそっと手を触れた。
「赤山天人。あなたがどれほど冷たい玉座を作ろうと、どれほど多くの人を影に引きずり込もうと。……私たちが、必ずそのすべてを、光の下に引きずり出します」
「……」
赤山の完璧な微笑みが、ほんのコンマ一秒だけ、再び静止した。
なぜ、この女は折れないのか。なぜ、これほどの絶望的な状況(自分の足元がすべて敵に回っている状態)でも、その眼の光を失わないのか。
赤山の計算式は、またしても輝夜の持つ『熱』の前でエラーを起こしていた。
「上等じゃ、輝夜」
幸隆は、輝夜の宣言を聞いて、ドス黒い笑みを浮かべた。
そして、ガラス越しの赤山に向かって、地獄の底から響くような声で言い放った。
「……赤山。お前は大きな勘違いをしとるぞ」
「勘違い、ですか?」
「お前は、この地下牢が『安全』じゃと言うたな。……法律も、軍隊も、監視カメラも、お前には『生ぬるいおもちゃ』に過ぎんようじゃが」
幸隆は、懐から愛用の『ピース』を取り出し、火を点けた。
紫煙が面会室に漂う。
「ワシはな、お前みたいなルール無用の害虫を駆除するためなら……国が用意した『おもちゃ(法律や憲兵隊)』なんか、いつでもゴミ箱に捨てられるんじゃ」
幸隆の三白眼に、狂気と覇気が混じり合った「黒い太陽」の光が宿る。
「お前が暗闇で影の内閣を作るなら、ワシは太陽の光ごと、この地下牢を物理的に焼き尽くしてやる。……首を洗って待っとれ。てめえの玉座、根こそぎ叩き割っちゃるわ」
最強の政治家による、ルール無用の大掃除の宣言。
ガラスを挟んで対峙する、絶対的な虚無と、最強のバディ。
大日本帝國を蝕む「影」を完全に消し去るための、幸隆の『超法規的カウンター』が、いよいよ発動の時を迎えようとしていた。




