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EP 4

月明かりの違和感――虚無の匂い

昭和15年(1940年)冬。

帝都・東京、首相官邸の総理執務室。

「……各省庁および財閥の調査結果ですが、不審な金の流れや、裏で糸を引いているような反乱分子の痕跡は、『一切』見当たりませんでした」

直立不動で報告を行う憲兵司令官・東條英機の声は、ひどく平板で、生気が欠けていた。

近衛文麿(若林幸隆)は、デスクの奥でブラックコーヒーをすすりながら、その東條の姿をじっと見つめた。

「一切ない、じゃと?」

幸隆の低くドス黒い広島弁が響く。

「ワシの目には、霞が関全体が『見えない沼』に沈みかけとるように見えるがのう。……東條。お前、何かワシに隠しとらんか?」

「……滅相もございません。総理の『法と規則』に従い、厳正な調査を行った結果であります」

東條は目を伏せ、軍人としての模範的な敬礼をして執務室を退出していった。

幸隆は、備前焼の灰皿にタバコを押し付けながら、深く舌打ちをした。

東條が嘘をついている。それくらい、百戦錬磨の政治家である幸隆には直感で分かった。

だが、あの忠犬・東條がワシを裏切る? いや、違う。あいつは何か巨大な弱みを握られ、『脅されている』のだ。

物理的な武力で脅せるわけがない。では、一体誰が、どうやって。

「……まさかのう」

幸隆の脳裏に、一つの最悪の可能性がよぎったが、彼はすぐにそれを振り払った。あの男は、絶対に外部と連絡が取れない地下深くの特別監房にぶち込んであるのだから。

   ◆

時を同じくして。霞が関、企画院。

日野輝夜は、農村整備予算の不自然な削減について、大蔵省の担当局長を直接問い詰めていた。

「局長。この予算削減の理由として挙げられている『第十三条の例外規定』ですが、これは本来、緊急時のためのものであり、今回のケースには適用されないはずです」

輝夜は、分厚い資料をデスクに広げ、凛とした声で指摘した。

担当局長は、かつて幸隆の政策に反発していたが、最終的には彼に屈服した保守派の官僚の一人だった。

彼は、輝夜の鋭い追及にも動じることなく、冷たい笑みを浮かべた。

「日野調査官。我々はあくまで『法』に則って手続きを進めているのです。例外規定の解釈については、複数の有識者からの『助言』を得ており、法的には何ら問題ありません」

「助言? その有識者とは誰ですか。こんな姑息な法の抜け穴を、霞が関の誰も気づかないうちに……」

「それは申し上げられません。ですが……」

局長は、まるで何かに取り憑かれたような、虚ろだが狂信的な光を瞳に宿して、不気味に囁いた。

「近衛総理は、強すぎる。あの強権的な『太陽』は、我々を焼き尽くしてしまう。……ですが、この世には、その光を完璧に遮断してくれる『優しく涼しい日陰』があるのですよ」

「……!」

輝夜の背筋に、冷たい氷柱が突き刺さったような悪寒が走った。

その言葉の選び方。

人間の弱さと欲望を肯定し、法や道徳ルールを嘲笑うような、あの冷たく無機質な論理。

(……人間の欲の深さは、どこまでいっても変わらない。あなたのポエムは無力だ)

かつて、長野の農村で輝夜の心を折ろうとした、あの男の「虚無の声」が、局長の言葉と完全に重なったのだ。

「……局長。あなた、誰からその入れ知恵をされました?」

「ですから、言えませんよ。我々はただ、正当な手続きを……」

「赤山天人ですね」

輝夜がその名を口にした瞬間、局長の顔がビクッと引きつり、額から一気に脂汗が吹き出した。

「な、何を馬鹿な! あの男は、東條司令官の地下牢にいる大罪人だ! 私が面会などできるはずが……ッ!」

「私は面会したとは一言も言っていません。……ですが、あなたのその反応で、すべて理解しました」

輝夜は、資料をまとめると、ヒールの音を響かせて局長室を足早に後にした。

(……間違いない。あの男は、地下牢の中から、霞が関の官僚や財閥を操っている。東條さんの調査が行き詰まっているのも、憲兵隊の足元がすでに赤山に掌握されているからだわ!)

どんなに分厚いコンクリートの壁に閉じ込めようと、人間の『欲』と『弱さ』がある限り、赤山の放つ毒は壁をすり抜けて伝播する。

一番安全なはずの地下牢こそが、彼にとって誰にも邪魔されない、最悪の「玉座」だったのだ。

輝夜は、一目散に首相官邸へと走った。

幸隆の待つ、総理執務室へ。

   ◆

「……なるほど。東條がワシに嘘をついた理由も、これで合点がいく」

輝夜からの報告を受けた幸隆は、真っ二つに割れたままのデスクの残骸に足を乗せ、ドス黒い笑い声を漏らした。

「ワシの作った『法と統制(太陽)』から逃れたい連中が、地下のあのクソガキのところに駆け込んで、抜け道の指示を仰いどるっちゅうわけか。……まさに『影の内閣シャドウ・キャビネット』じゃな」

「総理。このままでは、国の中枢が完全に赤山に乗っ取られます。……東條さんの憲兵隊も、もう信用できません」

輝夜の瞳には、かつてないほどの強い危機感が宿っていた。

「ああ、分かっとる。……お前が気づいてくれて助かったわ、輝夜」

幸隆は、ゆっくりと立ち上がり、ジャケットを羽織った。

「法律も、分厚い壁も、あのサイコパスには意味がねえ。……だったら、直接ワシらが地下へ出向いて、あの『玉座』から引きずり下ろすしかねえじゃろう」

最強の政治家(太陽)と、その危機を救った静かなる革命家(月)。

二人は、東條にも一切の連絡を入れず、赤山天人が君臨する「帝都の最深部」へと、極秘裏に足を踏み入れる決意を固めた。

玉座に座る虚無と、それを狩りに来た二人の神。

最終決戦の火蓋が、地下深くの闇の中で、再び切って落とされようとしていた。

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