EP 3
猟犬の悲鳴――首輪をつけられた番犬
昭和15年(1940年)冬。
近衛総理からの特命を受けた憲兵司令官・東條英機は、数日間にわたり、理研の電子計算機と自身の『情報特高』のネットワークをフル稼働させていた。
霞が関に蔓延する不自然なサボタージュ、そして財閥の隠し資産が巧妙に海外へ逃がされているルートの解明。
「……あり得ん。こんな馬鹿なことがあってたまるか」
深夜の司令官室。東條は、提出された報告書を前に、震える手で眼鏡を押し上げた。
すべての不審な金の流れ、情報伝達の起点となる『暗号通信』の発信源。それが、他でもない東條自身の管轄下――帝都の地下深くに位置する『憲兵隊本部・特別地下監房』から発せられていることが判明したのだ。
「加藤巡査の口座に、出所不明の莫大な金が振り込まれているだと? 他の看守たちも、深夜の面会記録を組織ぐるみで偽造している……ッ!」
東條の顔が、怒りと屈辱で真っ赤に染まった。
よりにもよって、総理の「最強の猟犬」を自負する自分の足元が、完全に腐りきっていたというのか。
「……あの、赤山という国賊め。地下牢の中から、私の部下たちをたぶらかしたか!」
東條は、愛用の軍刀と南部十四年式拳銃を腰に帯びると、数名の信頼できる側近だけを引き連れ、怒り狂う鬼の形相で地下監房へと向かった。
◆
「開けろ!!」
東條が、特別面会室のドアを荒々しく蹴り開けた。
そこには、囚人服を着た赤山天人が、看守が淹れたであろう高級な玉露を優雅にすすっている姿があった。
「これはこれは、東條司令官。こんな深夜に視察ですか? ご苦労様です」
赤山は、東條の怒気などそよ風ほどにも感じていない様子で、ミリ単位で調整された完璧な微笑みを向けた。
「貴様ァッ!!」
東條はアクリル板に歩み寄り、ガラス越しに赤山の眉間へ真っ直ぐに拳銃を突きつけた。
「ここで何を企んでいる! 私の部下たちをどうやって洗脳した! 答えろ、さもなくば国賊としてこの場で射殺する!!」
「洗脳? 人聞きの悪いことを言わないでください」
赤山は、突きつけられた銃口を前にしても、眉一つ動かさなかった。
「私はただ、彼らの『声なき悲鳴』を聞いてあげただけです。……東條閣下。あなたは近衛総理の忠実な番犬として、上(国家)ばかりを見ている。だから、自分の部下たちがどんなに薄給で苦しみ、家族の病気や借金で首が回らなくなっているかに気づかなかった」
「黙れ! 帝國軍人たるもの、個人の私情など……!」
「ええ、その『建前』が、彼らを苦しめていたのです」
赤山は湯呑みを置き、懐から一枚の折りたたまれた紙を取り出して、アクリル板の隙間から東條の側に滑り込ませた。
「……なんだこれは」
「私の『お客様(影の内閣)』のリストですよ。……ああ、財閥のトップや官僚の名前だけではありません。その下の方を見てください」
東條の視線が、リストの下半分に落ちた瞬間。
彼の全身から、サァッと血の気が引いた。
そこには、東條の右腕とも呼べる憲兵隊の高級将校たちの名前と、彼らが裏で手を染めていた「横領」「業者からの賄賂」「遊郭での借金」といった、目を背けたくなるような醜い事実が、証拠の保管場所とともにびっしりと記されていた。
「な……な、な……ッ!?」
「近衛総理は、非常に清廉潔白で、不正を一切許さない恐ろしいお方だ。……さて、東條閣下。もしあなたが私をここで撃ち殺し、あるいは総理にこの事態を報告すれば、どうなると思いますか?」
赤山の瞳の奥の『虚無』が、凍りついた東條の心を真っ直ぐに見透かしていた。
「このリストは、私の死と同時に外界へリークされるよう手配してあります。……総理は激怒し、あなたの誇る憲兵隊は『腐敗組織』として完全に解体されるでしょう。あなた自身も、監督責任を問われ、猟犬としての居場所を失う」
「き、きさまぁ……ッ!!」
東條の銃を握る手が、カタカタと情けない音を立てて震え始めた。
引き金を引けば、国を裏切った部下たちもろとも、自分のすべてが終わる。
「……人間は、ルール(法律)だけでは生きられない。光が強ければ強いほど、影に逃げ込む者は増えるのです。私は、その影を少し『調整』しただけですよ」
赤山は立ち上がり、ガラス越しに、震える東條を見下ろした。
「さあ、東條閣下。銃を下ろして、私を見逃しなさい。そうすれば、私はあなたの部下たちの不祥事を、これまで通り永遠に隠蔽してさしあげます。……あなたが『有能で忠実な猟犬』の仮面を被り続けられるようにね」
「……あ……うう……ッ」
カラン、と。
東條の手から、南部十四年式拳銃が床に滑り落ちた。
大日本帝國を震え上がらせてきた最強の暴力装置(憲兵隊)が、たった一人の囚人の「非暴力の脅迫」の前に、完全に膝を屈した瞬間であった。
「……賢明な判断です。これであなたも、私の『玉座』を守る立派な近衛兵の一人ですね」
赤山の無機質な声が、絶望してうなだれる東條の頭上に降り注ぐ。
幸隆の「目」であり「牙」であった東條が封じられたことで、赤山の構築した『影の内閣』は、いよいよ誰にも暴かれることのない完全なブラックボックスと化した。
パクス・ジャポニカの心臓部で、黒い癌細胞が致命的なまでの増殖を遂げた夜だった。




