EP 2
影の内閣――見えない浸食
昭和15年(1940年)冬。
帝都の地下、東條英機が管理する憲兵隊本部の特別監房。
その面会室は、毎深夜、まるで高級ホテルのVIPラウンジのような異常な熱気を帯びていた。
「……赤山先生。近衛総理が提出した『新・労働基準法案』ですが、このままでは我々財閥の工場は利益を出せなくなります。どうか、対策を……!」
「先生! 海軍の軍縮条約の枠組みを誤魔化すための、予算の付け替えについてご相談が……!」
分厚いアクリル板の向こう側に座る、囚人服の青年・赤山天人。
彼に対して頭を下げているのは、日本を動かす政治家、大企業の総帥、さらには軍の高級将校たちであった。
彼らは皆、幸隆の作り上げた「誰も切り捨てない、清廉潔白で強権的な国家」に息苦しさを感じていた。
欲深い彼らにとって、自分たちの既得権益を容赦なく削り取っていく幸隆(太陽)は、眩しすぎて直視できない恐怖の対象だったのだ。
だからこそ彼らは、太陽の光が絶対に届かないこの「地下牢」に群がった。
「落ち着いてください。皆さんの要望は、すべて私が『調整』します」
赤山は、看守が用意した高級な玉露をすすりながら、無機質な微笑みを浮かべた。
「労働基準法案については、第十三条の『例外規定』に、一つだけ曖昧な文言を紛れ込ませておきました。そこを突けば、合法的に労働時間を延長できます。海軍の予算については、満州のダミー会社を経由させる『飛ばし』のスキームを使いましょう」
赤山の頭脳から生み出される、現代の悪知恵と抜け穴の数々。
それは、昭和の権力者たちにとって、まさに「魔法の杖」だった。
「おお……! さすがは赤山先生だ!!」
「これで我々も生き残れる……!」
歓喜に沸く権力者たちを見下ろしながら、赤山の瞳の奥には、変わらぬ絶対的な虚無が広がっていた。
(近衛総理は、強大な権力で彼らの『行動』を縛った。だが、彼らの『強欲』までは消せなかった。……欲望がある限り、人間は必ず抜け道を探し、そこに依存する)
赤山はアクリル板に触れ、冷たく笑った。
(私は一歩もここから動く必要はない。……彼らが勝手に、私の代わりに盤面(大日本帝國)を壊してくれる)
地下深くで構築された、欲望にまみれた『影の内閣』。
彼らの放つ見えない猛毒は、やがて地上の霞が関へと、静かに浸食を開始した。
◆
数日後。霞が関、企画院。
「……どういうことですか。長野の農村に回すはずの『追加のインフラ整備予算』が、三割も削られているなんて!」
日野輝夜は、大蔵省の担当官僚のデスクに資料を叩きつけ、珍しく声を荒らげていた。
「申し訳ありません、日野調査官。しかし、手続き上の『不備』がありまして……」
担当官僚は、目を逸らしながら答えた。
「不備? 完璧に書類は揃えてありましたよ! なぜ、今になって急に『新たな監査が必要』だなんて難癖をつけるのですか!」
「難癖ではありません。我々はあくまで『法と規則』に則って、厳格な審査を行っているだけです。……近衛総理ご自身が、『ルールを厳守せよ』と仰っているではありませんか」
官僚の言葉に、輝夜は息を呑んだ。
彼の言う通り、手続き上は完全に「合法」なのだ。ただ、審査の順番を意図的に遅らせたり、重箱の隅をつつくような指摘を繰り返したりすることで、実質的に輝夜のプロジェクトを『兵糧攻め(サボタージュ)』にしているのである。
(……おかしい。誰もあからさまな反逆はしていないのに、国全体が、まるで見えない泥沼に足を踏み入れたように……重い)
輝夜の背筋に、嫌な汗が伝った。
かつて赤山天人が長野の村を内部崩壊させようとした時の、あの「人間の醜いエゴ」の匂いが、霞が関中に充満しているような気がしたのだ。
◆
同じ頃。首相官邸、総理執務室。
近衛文麿(若林幸隆)は、デスクに積み上げられた法案の決裁書類を睨みつけながら、愛用の『ピース』を深く吸い込んでいた。
「……東條」
「はっ、ここに」
直立不動で控える東條英機に対し、幸隆はドス黒い広島弁で低く唸った。
「最近、どうも霞が関の『UI(操作性)』が悪い。ワシがトップダウンで下した指示が、末端に届くまでに妙なタイムラグが発生しとる。……おまけに、議会を通ったはずの法案の条文に、ワシの記憶にない『抜け穴』がいくつも開いとる」
幸隆は、備前焼の灰皿にタバコを押し付けた。
彼の政治家としての鋭い嗅覚が、警鐘を鳴らしていた。
これは、ただの官僚の怠慢ではない。誰かが意図的に、システム全体に「見えないバグ」を仕込んでいる。
「東條。お前の情報特高で、各省庁の幹部や財閥の連中を洗え。……誰かが裏で糸を引いとるはずじゃ」
「……承知いたしました。直ちに調査を命じます」
東條は恭しく頭を下げた。
だが、その顔には、彼自身も気づいていない「致命的な盲点」があった。
東條は、外の敵(官僚や財閥)を疑うことには長けているが、自分自身の足元――すなわち、赤山のいる『特別監房の看守たち』がすでに寝返っていることには、微塵も気づいていなかったのである。
「……何か、嫌な予感がするのう」
幸隆は、窓の外の帝都を見下ろした。
目に見える敵(武力)なら、いくらでも捻じ伏せられる。
しかし、人間の「欲」という見えない泥に潜み、合法という盾の裏からチクチクと毒針を刺してくる敵には、国家権力という巨大なハンマーは驚くほど相性が悪い。
地下の玉座で微笑む虚無と、地上で苛立ちを募らせる黒い太陽。
大日本帝國を蝕む最悪の「精神戦」が、今、本格的に牙を剥き始めていた。




