第九章 地下牢の王(シャドウ・キャビネット)編
地下牢のサンプリング――安全で快適な玉座
昭和15年(1940年)冬。
帝都・東京の地下深くに作られた、憲兵隊本部・特別地下監房。
そこは、近衛総理(若林幸隆)や東條英機に牙を剥いた国賊たちがブチ込まれる、光も音も届かないコンクリートの墓場である。
分厚い鉄格子の奥、冷たい床の上で、薄汚れた囚人服を着た一人の青年が、壁に向かって静かに座禅を組んでいた。
赤山天人。
未来の金融工学を駆使して大日本帝國をハッキングしようとし、幸隆と輝夜によって完全に敗北した「絶対的な虚無」。
彼の全財産は没収され、手足には重い手錠がはめられている。通常の人間であれば、絶望と寒さで発狂してもおかしくない環境だ。
だが、赤山の顔には、苦痛も、屈辱も、後悔すらも一切浮かんでいなかった。
彼の心電図のようにフラットな思考は、ただ一つの事実だけを淡々と「処理」していた。
(なるほど。人間は『打算のない熱(絆)』と『理不尽な暴力(権力)』が合わさった時、私の予測モデルを超える動きをする。……私の計算式には、この『バグ』の要素が足りていなかったというわけだ)
敗北すらも、彼にとっては己のシステムをアップデートするためのデータに過ぎない。
「……赤山先生」
不意に、鉄格子の外から押し殺したような声が響いた。
見回りをしているはずの若い憲兵・加藤が、周囲を気にしながら、鉄格子の隙間から「陶器の湯呑み」をそっと差し出した。
「お待たせいたしました。ご要望の、常温の白湯です」
「ありがとう、加藤巡査。……妹さんの心臓の具合は、いかがですか?」
赤山は、手錠の鳴る音を響かせながら白湯を受け取り、完璧な「慈愛の微笑み」を向けた。
「はい……! 先生が外のお仲間に指示を出してくださったおかげで、アメリカ製の最新の特効薬が手に入りました。妹は、助かります! このご恩は、一生忘れません……!」
加藤は、囚人であるはずの赤山に対して、涙を流しながら深く頭を下げた。
近衛総理の進める医療改革は素晴らしいが、まだ末端の難病患者すべてを救うには至っていない。
赤山は投獄された直後から、看守たちとの何気ない雑談の中から、彼らの抱える「総理の光が届かない深い影(悩みや借金)」を正確にプロファイリングした。そして、外界に残しておいたわずかな手駒を使い、彼らの悩みをピンポイントで解決してやったのだ。
(暴力や洗脳は不要だ。……人間は、自分の弱みを救ってくれた者に、自ら喜んで首輪を差し出す)
「気になさらないでください。私はただ、少し『調整』しただけですから。……それよりも加藤巡査。例の『お客様』は?」
「はっ。すでに、面会室へ極秘にご案内しております」
加藤巡査は、憲兵隊の規律など完全に忘れ去った、狂信者のような目で頷いた。
大日本帝國の最強の猟犬であるはずの憲兵隊の足元は、たった数ヶ月で、赤山の手によって完全に腐り落ち(私兵化し)ていたのである。
◆
深夜の特別面会室。
分厚いアクリル板に仕切られた殺風景な部屋で、一人の初老の男が、ハンカチで滝のような脂汗を拭っていた。
郷田。
帝都でも有数の財閥系投資銀行の頭取であり、政財界に強いパイプを持つ大物である。彼は今、最高級の仕立てのスーツを着ているにもかかわらず、まるで怯える小動物のように震えていた。
ガチャリ、と。
アクリル板の向こう側のドアが開き、看守に付き添われた赤山が静かに椅子に座った。
「お初にお目にかかります、郷田頭取。……このようなむさ苦しい場所で申し訳ありませんね。私の『新しいオフィス』なもので」
「あ、赤山天人……! 君が、あの『金融統制法』の抜け穴を知っているというのは、本当なのか……!?」
郷田は、アクリル板にすがりつくようにして叫んだ。
幸隆が一晩で作った強権的な新法により、郷田の銀行の隠し資産はすべて「違法」とみなされ、明日の朝には国庫に没収(逮捕)されることが確定していた。
「ええ、知っていますよ」
赤山は、囚人服のまま、ミリ単位で調整された完璧なUI(微笑み)を浮かべた。
「近衛総理の作った法律は、強力ですが『昭和の枠組み』を出ていない。彼が見落とした国際送金のタイムラグと、中立国の外交行嚢(ダミー会社)を経由させれば、あなたの資産の八割は、合法的にスイスへ逃がすことができます」
「ほ、本当か……ッ!!」
郷田の顔に、狂喜の色が浮かぶ。
「手順は、この紙に書いてあります」
赤山は、看守の加藤を通じて、一枚のメモ用紙を郷田へと渡した。
「おお……おおお!! これだ、これなら内閣府の目をごまかせる!! 助かった……!!」
「ただし」
赤山の一切の感情が抜け落ちた声が、面会室の空気を凍りつかせた。
「その抜け道を使うためのパスワードは、私しか知りません。……郷田頭取。これからのあなたの人生の選択権(首輪)を、すべて私に委ねていただけますか?」
「なっ……」
郷田は息を呑んだ。
それは、囚人に対する事実上の「奴隷契約」だった。
「ふ、ふざけるな! 私は大財閥の頭取だぞ! なぜ、こんな薄汚い牢屋に入っている犯罪者の言いなりに……」
「では、交渉は決裂ですね。……明日の朝、東條司令官の憲兵隊があなたのお屋敷のドアを蹴り破るのを、震えてお待ちください」
赤山は、一切の未練もなく席を立ち、ドアに向かって歩き出した。
「ま、待て……! 待ってくれ……!!」
郷田は、気づけば冷たいコンクリートの床に両膝をついていた。
これまでの地位、名誉、そして命。それを失う恐怖が、彼のちっぽけなプライドを完全に粉砕したのだ。
「お願いだ……! 何でもする、言う通りにするから……私の資産を、命を助けてくれ……!!」
最高級のスーツを着た権力者が、アクリル板越しに、囚人服を着た青年に対して床に頭をこすりつけて命乞いをする。
それは、あまりにも歪で、狂気に満ちた「王の謁見」の光景だった。
「……賢明な判断です。郷田頭取」
赤山は振り返り、アクリル板越しに郷田を見下ろした。
彼の瞳の奥にある絶対的な『虚無』が、薄暗い面会室で静かに笑っていた。
「外の世界は、近衛総理という強すぎる太陽がいて、鬱陶しいでしょう。……ここは良い。誰も私を殺せない。最強のセキュリティに守られた、安全で快適な『私の玉座』だ」
赤山天人は、地下深くの牢獄から一歩も出ることなく。
大日本帝國を裏から支配する『影の内閣』の構築を、静かに、そして確実に開始していた。




