EP 11
夜明けの月見酒――不沈の黄金国家(第八章完)
昭和15年(1940年)秋。
赤山天人という「未来からのバグ(虚無)」が帝都の闇に消えてから、数日が過ぎた。
彼の構築していたダミー会社や裏帳簿は、理研の電子計算機と東條英機率いる憲兵隊によって完全に解体・没収された。
長野の農村にばら撒かれた「悪意の借金」も、幸隆の放った『国家金融統制法』という超法規的措置によってすべて帳消しとなり、村には再び、林檎の収穫を皆で笑い合う「本来の温かい共同体」の姿が戻っていた。
その報告をすべて聞き終え、残務処理を片付けた深夜。
霞が関の片隅にある古い官舎の一室で、日野輝夜はベランダの窓を開け放ち、初秋の涼しい夜風を部屋に招き入れていた。
「……こんばんは。総理」
輝夜が振り返ると、いつの間にか開いていたドアの枠に寄りかかるようにして、近衛文麿(若林幸隆)が立っていた。
護衛のSPを撒いてきたのだろう。着崩したスーツのネクタイは緩められ、その顔には、この数日間の死闘の疲労と、それ以上の「深い安堵」が滲んでいた。
「……おう」
幸隆は短く答え、いつものようにドカッと古いソファに腰を下ろした。
輝夜は微笑み、小棚から自作の備前焼のぐい呑みセットを取り出す。今日は冷や酒ではなく、秋の夜風に合わせて、少しだけ温度をつけた「ぬる燗」だった。
トクトク、と。土の器に酒が注がれる心地よい音が、静かな部屋に響く。
「……赤山の奴は、東條が地下の特別監房にぶち込んだ。現代の金融知識も、洗練された話術も、光の届かんコンクリートの底じゃあ何の役にも立たん」
幸隆は、備前焼のぐい呑みを手に取り、ドス黒い広島弁でポツリとこぼした。
「狂ったガキじゃったが……奴は、ワシの『IFの姿』じゃったのかもしれんのう」
「IFの姿、ですか?」
「ああ。他人の痛みに目を塞ぎ、国を豊かにするという目的のためだけに数字を弄り続ける。……もし、ワシがお前に出会わず、たった一人でこの覇道を走り続けていたら。いつかワシも、あいつと同じように空っぽの『虚無』になっとったかもしれん」
幸隆は、懐から愛用の『ピース』を取り出し、火を点けた。
紫煙が、夜の空気に溶けていく。最強の悪党政治家として振る舞ってきた男が、輝夜の前にだけ見せる、一人の人間としての脆さと孤独だった。
「……総理は、虚無にはなりません」
輝夜は、自分のぐい呑みを両手で包み込みながら、幸隆の隣に静かに座った。
「あなたは、泥にまみれることを恐れなかった。他人の痛みを背負う覚悟があったからこそ、怒り、苦しみ、あんなにもドス黒い炎を燃やすことができたのです。……空っぽの人間は、誰かのためにあんなに本気で怒ることはできません」
輝夜は、そっと幸隆の大きな背中に、自分の背中を預けた。
背越しに伝わる、確かな体温。
「私は、泥まみれになって戦うあなたの背中を、誇りに思います。……幸隆さん」
「……ホンマに、おどれには敵わんのう」
幸隆は、フッと息を吐き出し、極上の笑みを浮かべた。
彼が未来から持ち込んだ「原爆と敗戦のトラウマ」。そして、国家をハッキングしようとした「未来からの虚無」。
すべての暗闇を、この背中合わせの小さな「月」が、優しく照らし、浄化してくれた。
「……見ろ、輝夜」
幸隆が、ベランダの向こう、帝都の空を指差した。
夜の帳が白み始め、東の空から、力強い「太陽」が昇ろうとしている。
だが、その反対側の澄んだ青空には、淡く美しい「有明の月」が、はっきりとその姿を残していた。
「太陽と月は、本来なら同じ空には並び立たん。……じゃが、今のこの国は違う」
幸隆はぐい呑みを掲げた。
「ワシが強烈な光で外の敵を焼き尽くし、国を守る。お前がその光の届かん内側の影に寄り添い、優しく照らす。……この二つが揃って初めて、この国は完成するんじゃ」
「はい。……誰も切り捨てない、本当の黄金の国です」
輝夜もまた、ぐい呑みを掲げた。
カチン、と。土と土が触れ合う、素朴で温かい音が、夜明けの空気に響き渡る。
「乾杯じゃ、輝夜。……ワシらの、永遠に沈まん『パクス・ジャポニカ』に」
朝日を浴びて黄金色に輝き始める大日本帝國。
その中心で、最強の政治家と静かなる革命家は、ぬる燗の日本酒をゆっくりと飲み干した。
外からの暴力(列強)にも、内からの腐敗(老害)にも、そして未来からの悪意(虚無)にすら決して屈しない、人類史上最も強靭で優しい国。
その歴史の裏側には、常に泥にまみれながらも笑い合う「太陽」と「月」の姿があった。
二人の絆が続く限り、この国の夜明けは、永遠に約束されているのである。




