EP 10
不夜城の処刑――漆黒の万年筆を折る
昭和15年(1940年)秋。
帝都・東京、帝国ホテルの特級スイートルーム。
蹴り破られた重厚なドアから、ドカドカと軍靴の音を立てて雪崩れ込んできた憲兵隊が、部屋を完全に取り囲む。
その中心で、近衛文麿(若林幸隆)は、口にくわえた『ピース』から紫煙を吐き出しながら、氷のように冷たい三白眼で赤山天人を見下ろしていた。
「……野蛮な真似を。一国の総理ともあろう方が、法的手続きも踏まずに民間人を拘束するなど……国際社会が黙っていませんよ!」
赤山は、ソファから立ち上がり、必死に「完璧な微笑(UI)」を保とうとしていた。
だが、その声はわずかに上擦り、彼がこれまで一度も見せたことのない『焦り』が完全に露呈していた。
「国際社会じゃと? 笑わせるな」
幸隆は、ドス黒い広島弁で吐き捨てた。
「今、ヨーロッパはナチスと連合国で血みどろの殺し合い(地獄)の真っ最中だ。……テメェみたいな『現代のヘッジファンド気取りのクソガキ』が一人消えたところで、世界中の誰も見向きもせんわ」
「……ッ!」
赤山の顔が、ついに歪んだ。
彼は未来の知識(金融工学)を持っていたが、この「昭和15年」という時代が、現代の平和な法治国家とは根本的に違う『暴力と狂気の時代』であることを、本当の意味で理解していなかったのだ。
「それに、法ならさっきワシが作った。おどれのダミー会社は『国家反逆罪』で全財産没収。お前の持っとるその高級スーツの糸一本まで、今は『国』のモンじゃ」
幸隆が指を鳴らすと、憲兵たちが赤山の腕を両側から乱暴に拘束し、床に膝をつかせた。
「離せッ! 私に触るな! 私は、神が死んだこの世界で、愚かな大衆を導く『調整者(超人)』だぞ!!」
これまで他人の人生をゲームのように弄んできた男が、初めて物理的な暴力の前に無様な悲鳴を上げる。
その時。
軍靴の鳴る部屋に、静かな足音が響いた。
「……人間を『愚かな大衆』と見下すあなたには、決して誰も導けません」
憲兵たちの間を割って入ってきたのは、長野から急行した日野輝夜だった。
彼女のアースカラーのワンピースはまだ土埃で汚れ、頬には泥がついている。しかし、その佇まいは、どんな高級なドレスを着た貴婦人よりも気高く、美しかった。
「ひ、日野調査官……! なぜだ! なぜあの村の農民たちは、最後まであなたを裏切らなかった! 私が完璧な『利益の分断』を仕掛けたはずだ!!」
赤山が、血走った目で輝夜を睨みつける。
「あなたの計算式には、『温度』が欠けていたからです」
輝夜は、床に押さえつけられた赤山の前に静かに立った。
「あなたは利益(数字)の増減だけで人間を操れると思った。……でも、私たちが泥まみれになって村の人々と築いた絆には、数字では測れない『熱』があった。あなたがどんなに冷たい虚無を注ぎ込んでも、私たちが灯した温かい炎は、決して消えなかったのです」
輝夜の澄んだ瞳が、赤山の底なしの虚無を真っ向から照らし出す。
「……他人の痛みが理解できないことを、あなたは『強さ(超人)』だと思っていたようですが。……それは強さではありません」
輝夜の言葉に呼応するように、幸隆がゆっくりと赤山の前に歩み寄った。
そして、赤山の胸ポケットから、あの『漆黒の万年筆』――彼がこれまで無数の人間を社会的な死に追いやり、奴隷契約のサインをさせてきた絶対支配の象徴――を抜き取った。
「輝夜の言う通りじゃ。……お前はただ、人間の情緒が欠け落ちた『欠陥品』に過ぎん」
幸隆の低く、地獄の底から響くような声。
「ワシは、自分がどれだけ手を汚して悪党になろうとも、国民(人間)の痛みを背負って、この国を豊かにすると決めた。……だが、お前は違う。お前の中には、空っぽの『虚無』しかねえ」
幸隆は、両手でその漆黒の万年筆を握りしめた。
「他人の痛みが分からん奴に、国(盤面)を弄る資格はねえ。……一生、冷たい独房の中で自分の空っぽの魂でも観察しとけや!!」
バキィッ!!!
幸隆の太い指が、赤山の『漆黒の万年筆』を真っ二つにへし折った。
「あ……っ!」
へし折られた万年筆から、漆黒のインクがドクドクと血のように溢れ出し、赤山の完璧だった純白のシャツと、高級なダークスーツを無惨に汚していく。
それは、赤山天人という男の「絶対的な支配(UI)」が、完全に崩壊し、へし折られた瞬間であった。
「あ……ああ、ああああああッ!!!」
赤山は、インクに染まった自分の胸元を見て、ついに狂乱の叫び声を上げた。
計算が狂った。盤面が壊された。自分が「神(観察者)」ではなく、ただの「無力で滑稽な欠陥品」に過ぎないことを、最強の太陽と月の前に完全に証明されてしまったのだ。
「……連れて行け。二度と日の光を拝ませるな」
幸隆が冷酷に言い放つ。
「離せ! 私は、私はァァァッ!!」
泣き叫び、無様に鼻水を垂らしながら、赤山天人は憲兵たちに引きずられ、部屋の外へと消えていった。
後に残されたのは、真っ二つに折れた万年筆の残骸と、床に飛び散った黒いインクの染みだけだった。
「……終わりましたね」
輝夜が、静かに息を吐き出した。
「ああ。ワシらの国に紛れ込んだ最悪のバグは、完全に駆除した」
幸隆は、インクで汚れた手をハンカチで乱暴に拭うと、泥だらけの輝夜に向かって、フッと優しく、人間らしい笑みを向けた。
「おどれ、泥まみれじゃのう。……じゃが、帝都のどんな宝石よりも綺麗じゃわ」
「……ふふっ。総理も、怖いお顔がすっかり元通りです」
夜が明け始めた帝都の空。
窓の外には、朝日に照らされて黄金色に輝く大日本帝國の街並みと、うっすらと空に残る白い「月」が、寄り添うように並んでいた。
未来からの最悪の侵略者(虚無)を、国家権力の暴力と、決して折れない人間の絆で完全に粉砕した二人。
大日本帝國は、これにて一切の死角をなくし、文字通り「完全無欠の不沈国家」としての歴史を永遠に刻み始めるのであった。




