EP 8
虚無からの挑戦状――月食の夜(トロッコ問題)
昭和15年(1940年)秋。
長野の農村は、これまでにない最悪のパニック状態に陥っていた。
「どういうことだ! 『新東亜アグリ』の口座が凍結されて、金が振り込まれないだと!?」
「俺はもう、あの契約を当てにして新しいトラクターのローンを組んじまったんだぞ! 明日までに前払金が入らなきゃ、俺は破産だ!」
赤山天人が仕掛けた「専属契約による利益の独占」。
それに目が眩んだ一部の農家たちは、すでに多額の借金をして設備投資に走っていた。しかし、幸隆の特命によってダミー会社の口座が凍結されたことで、金流が完全にストップしてしまったのだ。
「日野さん! あんた官僚なんだろう! 国に言って、早く口座の凍結を解除させろ!」
「そうだ! 俺たちを見殺しにする気か!!」
怒り狂う村人たちが、泥だらけの輝夜を取り囲む。
彼らの顔に、かつて共に林檎の収穫を喜んだ「温かい共同体」の面影はない。あるのは、己の保身と剥き出しの強欲だけだった。
「……皆さん、落ち着いてください。今、口座を解除すれば、あの悪徳業者の思うツボです!」
必死に声を張り上げる輝夜。
その時、集会所の電話がジリリリリ! とけたたましく鳴り響いた。
輝夜が受話器を取ると、向こうから、一切の感情を持たない氷のような声が聞こえてきた。
『――暴徒の鎮圧、ご苦労様です。日野調査官』
「……赤山、天人」
『総理が私の口座を凍結することは、当然予測していました。ですから、私はあなたに【究極の二択】をご用意しました』
赤山の声は、まるで優雅なティータイムを楽しんでいるかのように平坦だった。
『私が彼らと結んだ契約は、法的に有効です。そして、彼らが抱えた借金の債権は、すでに帝都の投資銀行を通じて、巨大な【クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)】――つまり、焦げ付いた際の莫大な保険金契約と連動させてあります』
輝夜の背筋に、氷を当てられたような悪寒が走る。
現代の金融工学を知る彼女には、赤山が何を仕掛けたのか、一瞬で理解できた。
「……あなた、村人たちの借金を『起爆スイッチ』にして、国家予算を吹き飛ばす罠を仕掛けたのね……!」
『ご名答です』
赤山は、電話の向こうで無機質に微笑んだ。
『さあ、トロッコ問題の始まりです。
【選択肢A】:あなたが何もしなければ、明日、村の農家たちは連鎖倒産し、首を吊ります。あなたの信じた「王道(共同体)」は崩壊し、村人たちはあなたを恨みながら死んでいくでしょう。
【選択肢B】:村人を救うために、あなたが内閣府の権限を使い、国庫(税金)から特別融資を出して彼らを救済する。しかしその瞬間、CDSが発動し、大日本帝國の国家予算から莫大な外貨が、合法的に私の海外口座へと流出します。……総理が血反吐を吐いて稼いだ国益が、あなたの「優しさ」のせいで吹き飛ぶのです』
村の命か。国家の血肉か。
赤山は、最初からこの「二択」を突きつけるために、村人たちの強欲を煽り、借金をさせたのだ。
『あなたは「誰も切り捨てない」と言った。……さあ、見せてください。どちらを見捨てるのか。あなたが苦痛に顔を歪め、その美しい理想を自らへし折る瞬間を、楽しみにしていますよ』
ガチャリ、と。無慈悲に電話が切られた。
「……日野さん! 誰からの電話だ! 金は、金はどうなるんだ!!」
「俺たちを、助けてくれるんだろう!?」
詰め寄る村人たちの醜い顔。
彼らを切り捨てれば、輝夜の「月(誰も見捨てない光)」は嘘になる。
彼らを救えば、幸隆が背負ってきた「国(太陽)」の装甲に致命的な穴が開き、赤山の目論見通り、日本経済が深刻なダメージを負う。
詰みだ。
経済のルール、法律のルールに則っている限り、この絶対的な「論理の罠」から逃れる術はない。
(……私は、どうすれば)
輝夜は、震える手で胸元のアンティークブローチを握りしめた。
その時、彼女の脳裏に、あの夜、官舎のベランダで交わした言葉が蘇った。
『お前が内側の闇を照らす』
『二人で特大の花火を打ち上げて、この国の形を完全に仕上げるぞ』
(……そうだ。私は、月。……幸隆さんが背負った地獄を、光で消し去ると誓った)
輝夜の澄んだ瞳から、迷いの霧が完全に晴れた。
彼女は、騒ぎ立てる村人たちに向かって、静かに、しかし絶対的な威厳を持って言い放った。
「……皆さん、少し黙りなさい」
その声に宿る、備前焼のように高温で焼き締められた『芯の強さ』に、村人たちは思わず口をつぐんだ。
「赤山天人は、私たちに『誰を見捨てるか』という二択を迫りました。……ですが、私はどちらも選びません」
輝夜は、再び受話器を取った。
そして、帝都・首相官邸の『総理直通の最高機密回線』のダイヤルを、迷いなく回した。
「……日野さん? 一体、どこに電話を……」
数回のコールの後、受話器の向こうから、重く、ドス黒い、そして待ちわびたような『広島弁』が聞こえてきた。
『……どうした、輝夜。クソガキの罠(盤面)の底は、見えたか?』
「はい。……幸隆さん。敵の手口は、現代の金融派生商品を応用した、国家予算のハッキングです。……まともな『経済』で戦えば、私たちは負けます」
輝夜は、窓の外の夜空を見上げた。
雲を払い、くっきりと浮かび上がる美しい満月。
「総理。……太陽と月の引力で、『潮目』を完全に変えましょう」
『……クックックッ!! ガッハッハッハッ!!!』
受話器の向こうで、最強の悪党政治家が、腹の底から歓喜の爆笑を上げた。
『言うようになったのう、ワシの姫君(相棒)は! ……上等じゃ。奴がワシらの国で、未来のルールを使って小賢しいゲームを仕掛けるなら』
幸隆の声が、極寒の殺意と、絶対的な覇者のそれに変わる。
『ワシが、その「ルール(盤面)」ごと、ちゃぶ台をひっくり返してやる』
最悪のトロッコ問題を前に、最強のバディが選んだ「第三の選択肢」。
ルールを守って負けるくらいなら、ルールそのものを破壊して、敵を地獄へ叩き落とす。
現代の金融工学を無に帰す、国家権力の「超法規的措置(極上のざまぁ)」が、いよいよ発動の時を迎えようとしていた。




