表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
77/93

EP 8

虚無からの挑戦状――月食の夜(トロッコ問題)

昭和15年(1940年)秋。

長野の農村は、これまでにない最悪のパニック状態に陥っていた。

「どういうことだ! 『新東亜アグリ』の口座が凍結されて、金が振り込まれないだと!?」

「俺はもう、あの契約を当てにして新しいトラクターのローンを組んじまったんだぞ! 明日までに前払金が入らなきゃ、俺は破産だ!」

赤山天人が仕掛けた「専属契約による利益の独占」。

それに目が眩んだ一部の農家たちは、すでに多額の借金をして設備投資に走っていた。しかし、幸隆の特命によってダミー会社の口座が凍結されたことで、金流が完全にストップしてしまったのだ。

「日野さん! あんた官僚なんだろう! 国に言って、早く口座の凍結を解除させろ!」

「そうだ! 俺たちを見殺しにする気か!!」

怒り狂う村人たちが、泥だらけの輝夜を取り囲む。

彼らの顔に、かつて共に林檎の収穫を喜んだ「温かい共同体」の面影はない。あるのは、己の保身と剥き出しの強欲だけだった。

「……皆さん、落ち着いてください。今、口座を解除すれば、あの悪徳業者の思うツボです!」

必死に声を張り上げる輝夜。

その時、集会所の電話がジリリリリ! とけたたましく鳴り響いた。

輝夜が受話器を取ると、向こうから、一切の感情を持たない氷のような声が聞こえてきた。

『――暴徒の鎮圧、ご苦労様です。日野調査官』

「……赤山、天人」

『総理が私の口座を凍結することは、当然予測していました。ですから、私はあなたに【究極の二択】をご用意しました』

赤山の声は、まるで優雅なティータイムを楽しんでいるかのように平坦だった。

『私が彼らと結んだ契約は、法的に有効です。そして、彼らが抱えた借金ローンの債権は、すでに帝都の投資銀行を通じて、巨大な【クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)】――つまり、焦げ付いた際の莫大な保険金契約と連動させてあります』

輝夜の背筋に、氷を当てられたような悪寒が走る。

現代の金融工学を知る彼女には、赤山が何を仕掛けたのか、一瞬で理解できた。

「……あなた、村人たちの借金を『起爆スイッチ』にして、国家予算を吹き飛ばす罠を仕掛けたのね……!」

『ご名答です』

赤山は、電話の向こうで無機質に微笑んだ。

『さあ、トロッコ問題ゲームの始まりです。

【選択肢A】:あなたが何もしなければ、明日、村の農家たちは連鎖倒産し、首を吊ります。あなたの信じた「王道(共同体)」は崩壊し、村人たちはあなたを恨みながら死んでいくでしょう。

【選択肢B】:村人を救うために、あなたが内閣府の権限を使い、国庫(税金)から特別融資を出して彼らを救済する。しかしその瞬間、CDSが発動し、大日本帝國の国家予算から莫大な外貨が、合法的に私の海外口座へと流出します。……総理が血反吐を吐いて稼いだ国益が、あなたの「優しさ」のせいで吹き飛ぶのです』

村の命か。国家の血肉か。

赤山は、最初からこの「二択」を突きつけるために、村人たちの強欲を煽り、借金をさせたのだ。

『あなたは「誰も切り捨てない」と言った。……さあ、見せてください。どちらを見捨てるのか。あなたが苦痛に顔を歪め、その美しい理想ポエムを自らへし折る瞬間を、楽しみにしていますよ』

ガチャリ、と。無慈悲に電話が切られた。

「……日野さん! 誰からの電話だ! 金は、金はどうなるんだ!!」

「俺たちを、助けてくれるんだろう!?」

詰め寄る村人たちの醜い顔。

彼らを切り捨てれば、輝夜の「月(誰も見捨てない光)」は嘘になる。

彼らを救えば、幸隆が背負ってきた「国(太陽)」の装甲に致命的な穴が開き、赤山の目論見通り、日本経済が深刻なダメージを負う。

詰みだ。

経済のルール、法律のルールに則っている限り、この絶対的な「論理のトロッコ」から逃れる術はない。

(……私は、どうすれば)

輝夜は、震える手で胸元のアンティークブローチを握りしめた。

その時、彼女の脳裏に、あの夜、官舎のベランダで交わした言葉が蘇った。

『お前が内側の闇を照らす』

『二人で特大の花火を打ち上げて、この国の形を完全に仕上げるぞ』

(……そうだ。私は、月。……幸隆さんが背負った地獄を、光で消し去ると誓った)

輝夜の澄んだ瞳から、迷いの霧が完全に晴れた。

彼女は、騒ぎ立てる村人たちに向かって、静かに、しかし絶対的な威厳を持って言い放った。

「……皆さん、少し黙りなさい」

その声に宿る、備前焼のように高温で焼き締められた『芯の強さ』に、村人たちは思わず口をつぐんだ。

「赤山天人は、私たちに『誰を見捨てるか』という二択を迫りました。……ですが、私はどちらも選びません」

輝夜は、再び受話器を取った。

そして、帝都・首相官邸の『総理直通の最高機密回線』のダイヤルを、迷いなく回した。

「……日野さん? 一体、どこに電話を……」

数回のコールの後、受話器の向こうから、重く、ドス黒い、そして待ちわびたような『広島弁』が聞こえてきた。

『……どうした、輝夜。クソガキの罠(盤面)の底は、見えたか?』

「はい。……幸隆さん。敵の手口は、現代の金融派生商品デリバティブを応用した、国家予算のハッキングです。……まともな『経済ルール』で戦えば、私たちは負けます」

輝夜は、窓の外の夜空を見上げた。

雲を払い、くっきりと浮かび上がる美しい満月。

「総理。……太陽と月の引力で、『潮目ルール』を完全に変えましょう」

『……クックックッ!! ガッハッハッハッ!!!』

受話器の向こうで、最強の悪党政治家が、腹の底から歓喜の爆笑を上げた。

『言うようになったのう、ワシの姫君(相棒)は! ……上等じゃ。奴がワシらの国で、未来のルールを使って小賢しいゲームを仕掛けるなら』

幸隆の声が、極寒の殺意と、絶対的な覇者のそれに変わる。

『ワシが、その「ルール(盤面)」ごと、ちゃぶ台をひっくり返してやる』

最悪のトロッコ問題を前に、最強のバディが選んだ「第三の選択肢」。

ルールを守って負けるくらいなら、ルールそのものを破壊して、敵を地獄へ叩き落とす。

現代の金融工学を無に帰す、国家権力の「超法規的措置(極上のざまぁ)」が、いよいよ発動の時を迎えようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ