EP 6
論語(理想)を嘲笑うツァラトゥストラ――月の試練
昭和15年(1940年)秋。
長野の農村に赤山天人が放った「強欲(利益の独占)」という猛毒は、たった数日で村の共同体を再起不能なまでに蝕んでいた。
「さあ、ここにハンコを押せば、これまでの三倍の現金が手に入る。……もう、足手まといの年寄りどもの世話を焼く必要はありませんよ」
「ええい、どけ! 俺が先に契約するんだ!」
集会所では、赤山のダミー会社『新東亜アグリ』の背広を着た男たちが、札束の山を前に契約書を並べていた。
一部の有力な農家たちは完全に我を忘れ、これまで苦楽を共にしてきたはずの村人たちを突き飛ばして、契約書に群がっている。
法人(村全体)で守られてきた美しい絆は、現金の魔力の前にもろくも崩れ去ろうとしていた。
「皆さん、目を覚ましてください! その契約書にサインすれば、法人は解散となり、契約から漏れた人たちは生きていけなくなります! それに、来年以降もその高値で買い取ってくれる保証はどこにもないんですよ!」
輝夜は、泥にまみれながら必死に村人たちを説得して回っていた。
彼女の喉は枯れ、アースカラーのワンピースは土埃で汚れきっている。だが、どれだけ声を枯らして「論語(道徳と共生)」を説いても、目先の「算盤(欲望)」に狂った彼らには届かない。
「うるせえっ! お偉い官僚様には、俺たち貧乏人が大金を手に入れるチャンスのありがたみが分からねえんだよ!」
一人の男が、輝夜の腕を乱暴に振り払った。
輝夜はバランスを崩し、冷たい土の上に倒れ込んだ。
「……痛ましいですね。これが、あなたの信じた『人間の心』の正体ですよ」
土に伏した輝夜の頭上から、感情の一切こもらない、無機質な声が降ってきた。
赤山天人。
彼は一糸乱れぬ三つ揃えのスーツ姿のまま、倒れ込んだ輝夜を見下ろしていた。その手には、あの『漆黒の万年筆』が握られている。
「近衛総理は、強大な『恐怖』と『利益』で人間を操る。だから盤面は崩れない。……ですが、あなたは『優しさ』や『共生』といった、実体のないポエムで人間を縛ろうとした。だから、少しの利益を与えただけで、こうも簡単に崩壊する」
赤山の瞳の奥にある虚無が、輝夜の心を真っ直ぐに抉りにくる。
「日野調査官。あなたは賢い女性だ。もう理解しているはずです。……人間とは、どこまでいっても利己的で醜い生き物だということを」
赤山は、しゃがみ込み、輝夜の目の前に一枚の書類を差し出した。
それは『信州農業生産法人の解散同意書』だった。
「さあ。この書類に、あなたが代表としてサインをしなさい。そうすれば、この不毛な争いは終わります。……あなたの美しい理想(論語)は、私の用意した現実の前に敗北したのです」
赤山が、漆黒の万年筆を、輝夜の手元に静かに置いた。
彼がこの万年筆を置いた時、相手は完全に心を折られ、自ら敗北を受け入れる。それが、この「絶対的な虚無」が作り上げてきた無敗の処刑儀式だった。
だが。
「……敗北、ですか」
土に伏していた輝夜は、ゆっくりと顔を上げた。
その頬は泥で汚れ、髪は乱れていたが……彼女の澄んだ瞳の奥には、備前焼の炎のように、静かで決して消えない『光』が宿っていた。
「あなたは……人間を、何も分かっていない」
「……何?」
赤山の完璧な微笑みが、わずかにピクリと動いた。
「確かに、人間は弱く、利己的で、迷う生き物です。……でも、だからこそ!」
輝夜は、自分の目の前に置かれた漆黒の万年筆を、泥だらけの手で力強く払い除けた。
ポロリ、と。赤山の絶対的な支配の象徴である万年筆が、土埃の中に転がる。
「暗闇の中で迷う人がいるなら、何度でも、私が光を当てて道を示します! 人が本当の自分を思い出すまで、私は絶対に諦めない!!」
輝夜は立ち上がり、再び怒号の渦巻く村人たちの中へと、泥だらけの姿で飛び込んでいった。
論破されたわけではない。物理的な状況が好転したわけでもない。
ただ、彼女の放つ「打算のない純粋な熱(絆)」だけが、赤山の計算式には決して組み込めない、強烈なバグとして発露し始めていた。
「……理解、できない」
赤山は、泥にまみれた自分の万年筆を見つめ、初めて「不快感」という感情の片鱗を顔に滲ませた。
なぜ、彼女は心が折れないのか。なぜ、絶望しないのか。
「……まあいい。完全に村が崩壊するまで、あと数時間。ゆっくりと削り取って……」
その時である。
赤山の背後に控えていた『新東亜アグリ』の幹部が、血相を変えて駆け寄ってきた。
「あ、赤山先生!! た、大変です!! 帝都の株式市場で、我々のダミー会社の株が……一斉に、凄まじい勢いで『売り叩かれて』います!!」
「……何だと?」
「そ、それだけじゃありません! メインバンクからの送金が、すべて内閣府の特命によって『凍結』されました! このままでは、村人たちに約束した前払金が、一銭も払えません!!」
赤山の無機質な顔が、初めて驚愕に歪んだ。
完璧に隠蔽していたはずの金庫(ダミー会社)の繋がりが、完全に把握され、物理的な暴力(国家権力)によってへし折られようとしている。
「……バカな。私が構築した金融のハッキング網を、この昭和のシステムで、これほど短時間で逆探知して叩き潰せる人間など……」
赤山が、帝都の方角を睨みつけたその瞬間。
◆
帝都・東京、首相官邸。
「……村の法人を解散させて、土地を買い叩くじゃと?」
総理執務室のデスクは、真っ二つにへし折られていた。
その中央に立つ近衛文麿(若林幸隆)の全身から、空気が凍りつき、空間そのものが歪むほどのドス黒い『殺気』が立ち昇っていた。
「ワシの……ワシの唯一の相棒(月)が、血反吐吐いて作ったサンクチュアリに、土足で踏み込んで荒らし回った挙句……あまつさえ、あの女を泥の中に引きずり倒したじゃと……ッ!!」
幸隆の目は完全に血走り、鬼神の如き形相と化していた。
傍に立つ東條英機すら、その尋常ではない覇気に震え上がり、一歩も動くことができない。
「東條ォ!!」
「は、ははっ!!」
「理研の計算機と情報特高をフル稼働させろ。赤山の息のかかった企業、口座、株、すべてを一つ残らず叩き潰せ。……法律が邪魔なら、一時間以内にワシが新しい法案(勅令)を書いて捻じ伏せる!!」
幸隆は、備前焼の灰皿に乱暴にピースを押し付けると、スーツのジャケットを荒々しく羽織った。
「あのサイコパス野郎……。人間の痛みが分からんのなら、物理的に分からせてやる。……ワシの女を泣かせた代償、その冷え切った魂ごと地獄で払わせちゃるわ!!」
最強の政治家(太陽)が、ついにリミッターを完全に解除し、狂える覇王となって動き出した。
現代金融工学の悪魔・赤山天人を物理法則と国家権力で圧殺する、凄絶なるカウンターオペレーションの幕が、今、切って落とされた!




