EP 5
標的は『月』――赤山のゲーム
昭和15年(1940年)秋。
長野県の山間部。日野輝夜が心血を注いで立ち上げ、大日本帝國の「地方再生のモデルケース」となった美しき農業共同体。
かつて、貧しさの中でも肩を寄せ合い、笑顔で林檎の収穫を喜んでいた村の集会所は今、信じられないほどの怒号と殺気で満ちていた。
「ふざけるな! なんで俺の畑で採れた最高級の林檎の利益を、お前らみたいな怠け者の百姓と『平等』に分け合わなきゃならねえんだ!」
「なんだと!? 元はと言えば、日野さんが作ってくれた『法人』の仕組みがあってこそだろうが!」
「うるせえ! 俺はもう法人を抜ける! 『新東亜アグリ』の人間が、俺の林檎だけを今の三倍の値段で独占契約してくれるって言ってるんだ!」
帝都から急遽村へと駆けつけた輝夜が目にしたのは、札束の束を握りしめ、目を血走らせて取っ組み合いの喧嘩をする村人たちの姿だった。
「……皆、やめてください! 一体、何があったというのですか!」
輝夜の悲痛な声が響くが、狂騒状態の村人たちの耳には届かない。
頭を抱えて座り込んでいた村長が、輝夜の姿を見てすがりついてきた。
「ひ、日野さん……! 申し訳ねえ、村が、バラバラになっちまう……ッ!」
村長が差し出したのは、一枚の分厚い契約書だった。
輝夜の目が、そこに書かれた条項を高速で読み解いていく。そして、背筋に冷たい汗が伝った。
(……現代のアグリビジネスにおける『分断工作』……!)
仕掛けたのは、赤山天人のダミー会社の一つ『新東亜アグリ』であった。
彼らは村全体を攻撃したのではない。村の中でも特に優秀な農地を持つ「数人の有力な農家」だけをピンポイントで狙い、莫大な前払金と引き換えに「専属契約」を持ちかけたのだ。
輝夜の作った法人は「皆で利益を共有し、誰も切り捨てない」という王道のシステムだ。
だが、赤山はそこに「自分だけが抜け駆けすれば、他人の三倍儲かる」という強烈な『特権(利益)』を流し込んだ。
結果として、選ばれた農家は優越感と強欲に駆られ、選ばれなかった農家は嫉妬と不信感に狂い、村の絆はたった数日でズタズタに引き裂かれてしまったのである。
「……日野さん。俺たちはもう、昔の貧乏人じゃねえんだ」
専属契約を結ぼうとしている農家の男が、輝夜から目を逸らしながら言った。
「あんたには感謝してる。でも、もっと金が稼げるなら、そっちに行きたい。……足手まといの奴らと一緒に、いつまでも『平等』なんてやってられねえんだよ」
その言葉は、輝夜が信じていた「人間の絆」を根本から否定する、冷たく重い刃だった。
「……素晴らしい。やはり人間は、少しの『不平等』を与えるだけで、こうも簡単に醜く争い始める」
ふと。
怒号の響く集会所の隅で、拍手の音が鳴った。
輝夜が振り向くと、そこには土埃の舞う農村には全く似つかわしくない、完璧な三つ揃えのダークスーツを着た青年が立っていた。
赤山天人。
彼は常温のミネラルウォーターが入った水筒を片手に持ち、まるでショーケースの中の虫の殺し合いを観察するような、無機質な微笑みを浮かべていた。
「……あなたが、赤山天人ですね」
輝夜の澄んだ瞳が、極限の緊張感とともに赤山を射抜く。
「お初にお目にかかります、日野調査官。……いや、今は『霞が関の月』とお呼びすべきでしょうか」
赤山は一礼し、村人たちの争いを顎でしゃくった。
「私は暴力など一切振るっていませんよ。ただ、彼ら自身に『より豊かな選択肢』を提示しただけです。……あなたが与えた『優しさ(平等)』というぬるま湯は、結局のところ、彼らを甘えさせていただけだった。そうでしょう?」
「……人間の弱さを利用して、共同体を壊すのがあなたの目的ですか」
「目的? いいえ、これはただの『実験』です」
赤山は、輝夜の目の前まで歩み寄った。
彼の瞳の奥にある絶対的な虚無が、輝夜を覗き込む。
「太陽のように強引な近衛総理と違い、あなたは『人間の心』を信じている。……だからこそ、私がこの村を『合法的に』崩壊させた時、あなたがどんな絶望の表情を浮かべるのか。それが見てみたくてね」
赤山は、胸ポケットの漆黒の万年筆に指を這わせた。
「さあ、月明かりの姫君。あなたの美しい理想は、この圧倒的な『人間の強欲』の前に、どう立ち向かうおつもりですか?」
輝夜は、震える手を強く握りしめた。
相手は、幸隆の権力(太陽)の届かない「人間の心の闇」を直接ハッキングしてくる怪物。
だが、彼女の瞳の奥の光は、決して消えてはいなかった。
「……月は、迷いません」
輝夜は、赤山の虚無の瞳を真っ直ぐに見据え返した。
「あなたがどれほど暗闇を広げようと。……私が、この村の人々の本当の心(光)を、必ず思い出させてみせます」
最強のヒロイン(月)と、最悪の虚無の直接対決。
大日本帝國の未来を賭けた、人間の「絆」と「欲望」を巡る凄絶な心理戦の火蓋が切って落とされた。




