EP 2
漆黒の万年筆と微笑む悪魔――非暴力の処刑
昭和15年(1940年)秋。
帝都・東京、銀座の裏路地に佇む会員制の高級倶楽部。
その最奥にあるVIPルームで、一人の男が顔を両手で覆い、獣のような低い嗚咽を漏らしていた。
新興物流会社『帝都通運』の社長、黒田。
近衛総理の進めるインフラ整備と農村再生の波に乗り、わずか一年で莫大な財を成した、昭和の新しい成功者の一人である。
だが今、彼の身にまとっていた高級スーツはヨレヨレになり、その顔は数日で十年も老け込んだように土気色に濁っていた。
「……お願いだ、赤山先生。どうか、どうか私を助けてくれ……!」
黒田は、テーブルの向こう側に座る若き青年に向かって、文字通り地に頭を擦りつけるようにして懇願した。
「昨日、突然メインバンクから『融資の全額即時返済』を迫られた! 理由は分からない! それと同時に、うちの主力トラック数十台が原因不明のエンジン火災を起こし、さらに追い打ちをかけるように、私が過去に愛人に送った『小切手の控え』が、なぜか妻と新聞社の手に渡って……!」
黒田の口から吐き出されるのは、信じられないほどの「不幸の連鎖」だった。
「会社は倒産寸前、妻は子供を連れて実家に帰り、私を横領と背任で告訴すると言っている……! もう、私には先生しか頼れる人間がいないんだ!!」
黒田がすがりつく青年――赤山天人は、完璧に仕立てられた三つ揃えのダークスーツを身に纏い、一糸乱れぬ姿勢でソファに腰掛けていた。
彼は、泣き叫ぶ黒田の惨状を前にしても、眉一つ動かさない。ただ、手元のグラスに入った常温の白湯を静かに一口飲み、相手を安心させるためにミリ単位で調整された完璧な「微笑み(UI)」を浮かべた。
「お気の毒に、黒田社長。……まさに、泣きっ面に蜂といった状況ですね」
赤山の声は、どこまでも澄んでいて、温かく、そして空虚だった。
「ですが、ご安心を。私は『調整者』です。……あなたの抱える借金を肩代わりし、新聞社の報道を差し止め、奥様との示談を成立させる『完璧な救済案』をご用意しております」
「ほ、本当か……!?」
黒田が、地獄で仏に会ったような顔で顔を上げる。
「ええ。ただし、条件が一つだけあります」
赤山は、テーブルの上に一枚の書類を滑らせた。
「あなたの所有する『帝都通運』の全株式、および社長個人の全資産を、私の指定する『投資組合(ダミー会社)』へ無償譲渡していただきます。……もちろん、あなたが刑務所に入らずに済むよう、最低限の生活費はお支払いしましょう」
「なっ……!?」
黒田の顔が、絶望に歪んだ。
それは救済ではない。会社も、財産も、人生のすべてをこの青年に差し出すという、完全なる『奴隷契約』だった。
「ふ、ふざけるなッ!! 私の会社を奪う気か!! こんな条件、飲めるわけがないだろう!!」
激昂した黒田が、テーブルを叩いて立ち上がる。
だが、赤山は一切動じず、ただ美しい微笑みを保ったまま、静かに口を開いた。
「黒田社長。あなたは、何か勘違いをされているようだ」
赤山の、感情の欠落した冷たい瞳が、黒田を射抜く。
「……あの『銀行の貸し剥がし』を指示したのは、誰だと思いますか? あなたの愛人が隠し持っていた『小切手』を、奥様と新聞社に高値で売りつけたのは? そして、あなたの会社のトラックのエンジンに『細工』をするよう、整備士に金を握らせたのは?」
「あ……」
黒田の全身から、一瞬にして血の気が引いた。
頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、最悪の形で組み合わさっていく。
「き、きさま……まさか……!!」
「私は、相手の退路を断ち、物理的に孤立させ、そして自ら私の前に這いつくばるよう『盤面』を整えただけです」
赤山は、胸ポケットにゆっくりと手を伸ばした。
「あなたが、私を『恩人』だと思い込み、この部屋に泣きついてきた時点で……あなたの人生は、すでに『詰んで』いるのですよ」
コトリ、と。
赤山の手から、一本の『漆黒の万年筆』が、奴隷契約書の上に静かに置かれた。
「……さあ。サインを」
「あ、あああ……ッ! 悪魔だ……! 貴様、人間の心がないのか……!!」
黒田は恐怖と絶望に狂乱し、逃げ出そうとドアに向かって這いずった。
だが、彼にはもう帰る家も、会社も、信用も、一銭の金も残されていない。この部屋を一歩出れば、待っているのは逮捕と、社会的な死(あるいは物理的な死)だけなのだ。
「……ううっ……うわあああああんッ!!!」
黒田は、子供のように泣き叫びながら契約書の前に戻り、震える手で漆黒の万年筆を握りしめ、自らの破滅にサインをした。
「……賢明な判断です。これからのあなたの人生に、私の『調整』が安らぎをもたらすことを祈っていますよ」
赤山は、サインされた契約書を丁寧に折りたたみ、内ポケットにしまった。
彼にとって、一人の人間の人生が壊れ、尊厳が踏みにじられる瞬間は、ただの「サンプリング(データの収集)」でしかない。そこに喜びも悲しみもなく、ただ無機質な虚無だけが広がっていた。
「……さて。これで、手駒(物流網)は一つ手に入れました」
赤山は、冷たくなった白湯を飲み干し、窓の外の帝都の夜景を見下ろした。
彼の視線の先にあるのは、輝夜が作り上げた長野の農村と、それを結ぶ巨大な経済圏。
「近衛総理……そして、彼が溺愛する『月』。……あなたたちの作ったその完璧で美しい『絆』が、私が少し環境を変えるだけで、どれほど無惨に裏切り合い、崩壊していくのか」
赤山天人の、完璧に計算されたUI(微笑み)が、この日初めて、ほんのわずかに歪んだ。
「……ああ。早く、あなたたちの悲鳴が聞きたい」
非暴力の悪魔が、ついに幸隆と輝夜の最大の「サンクチュアリ」へと、その漆黒の触手を伸ばし始めた瞬間であった。




