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第八章 太陽と月 vs 虚無(ブラックホール)――帝都の深淵

完璧な世界の『バグ』――見えない侵略者

昭和15年(1940年)秋。

「太陽(覇道)」と「月(王道)」の両輪が完璧に噛み合い、大日本帝國は建国以来の絶頂期、すなわち真の黄金時代を謳歌していた。

……はずだった。

帝都・東京、首相官邸。

いつもなら外務大臣の吉田茂の豪快な笑い声が響く総理執務室は、今日、まるで通夜のような重苦しい静寂と、凍りつくような緊張感に包まれていた。

「……大蔵省の倉田局長が、自宅の書斎で首を吊った、じゃと?」

デスクの奥深く。近衛文麿(若林幸隆)は、指に挟んだ『ピース』の灰が落ちるのも構わず、ドス黒い広島弁を低く響かせた。

倉田局長。彼は、輝夜の作った『農業および地方再生法案』に深く共感し、大蔵省内部で命がけで予算を引っ張ってきてくれた、極めて優秀で清廉潔白な官僚だった。

幸隆の鋭い三白眼が、直立不動で報告を行う憲兵司令官・東條英機を射抜く。

「東條。……貴様の『情報特高』は、何を遊んどったんじゃ。殺し(暗殺)の痕跡は? 財閥の残党か、それとも外国のスパイの仕業か?」

「はっ……! それが……」

冷酷無比な猟犬として恐れられる東條の顔に、かつてない「困惑」と「焦り」が浮かんでいた。

「我が憲兵隊と、理研の『電子計算機』をフル稼働させて、彼の身辺と通信記録を徹底的に洗いました。……しかし、他殺の痕跡や、何者かに脅迫されていた証拠は『一切ゼロ』です」

東條は、脂汗を滲ませながら報告書を読み上げた。

「一週間前、倉田局長が過去に投資していた新興株が突然大暴落し、莫大な借金を抱えました。その直後、なぜか新聞各社に彼の『横領疑惑』と『愛人問題(事実無根の捏造写真)』のタレコミが同時に送られ、彼は大蔵省を懲戒免職。……家族は彼を見限り、家を出ていきました」

「……」

「借金、失職、そして家族の離散。すべてがこの一週間に『偶然』重なり……彼は絶望し、自ら首を吊るしかなかったのです。これは、誰がどう見ても完璧な『自殺』であります」

「偶然、だと?」

幸隆は、備前焼の灰皿にタバコを乱暴に押し付けた。

「東條。お前は、そんな三文小説みたいな『不運の連鎖』を本気で信じとるのか? ……下がれ。もうええ」

「は、はっ……!」

東條が逃げるように執務室を退出する。

入れ替わるように、静かな足音を立てて日野輝夜が部屋に入ってきた。彼女の手には、お盆に乗せられたお茶があったが、その表情はいつもの穏やかなものではなく、深く沈み込んでいた。

「……総理。倉田局長の奥様から、お話を伺ってきました」

「どうじゃった」

「『主人は、横領など絶対にしない。先週も、長野の農村に予算が下りて本当に良かったと、嬉しそうに笑っていたのに……突然、すべてがおかしくなった』と、泣き崩れておられました」

輝夜は、幸隆のデスクに湯呑みを置き、悲痛な声で言葉を継いだ。

「総理。倉田局長は、絶望して死を選ぶような方ではありません。……何者かが、彼を『社会的な死』に追い込み、自ら首を吊るように仕向けたのです」

「ああ、分かっとる」

幸隆は、目を閉じ、これまでのすべての「盤面(政治と経済の動き)」を脳内で高速処理し始めた。

これまでの敵――アメリカのルーズベルトや、ソ連のスターリン、国内の財閥の老害ども。彼らのやり方は、軍事力やカネを使った「物理的な暴力」だった。だからこそ、幸隆は未来知識でそれを防ぎ、カウンターを合わせることができた。

だが、今回の敵の手口は全く違う。

暴力は一切使わず、法律や経済のシステムをハッキングし、タイミングを完璧に操作して、標的を「自滅」に追い込んでいる。

証拠は一切残さず、すべての事象を「自然な不幸」に見せかける、異常なまでの緻密さと冷酷さ。

(……この時代(昭和)の人間じゃあない)

幸隆の背筋に、タイムスリップしてきて初めて、ゾクりとした冷たい悪寒が走った。

現代の高度な金融工学や、情報操作の手法を完全に熟知し、それを躊躇いなく人間の精神破壊に使う存在。

「……輝夜。ワシらが作ったこの完璧な箱庭パクス・ジャポニカに……とんでもない『バグ(異物)』が紛れ込んどるぞ」

幸隆は、ゆっくりと目を開き、暗く淀んだ三白眼で窓の外の帝都を見下ろした。

「ワシらと同じように、未来の知識を持ったまま……人間の心(痛み)を一切持たない『化け物』がな」

   ◆

時を同じくして。

帝都・銀座の、最高級ホテルのスイートルーム。

完璧に仕立てられた三つ揃えのダークスーツを身に纏い、髪の毛一本すら乱さずソファに座る男がいた。

赤山天人あかやま・あまと、25歳。

彼の目の前のテーブルには、今日の朝刊が置かれていた。

一面には『大蔵省・倉田局長、汚職の末に首吊り自殺!』という、彼自身が完全にデザインした「見出し」が躍っている。

「……やはり、少し刺激が足りませんでしたね」

赤山は、常温の白湯の入ったグラスを傾けながら、一切の感情を持たない、冷たく美しい顔で薄く微笑んだ。

「大日本帝國という盤面は、近衛文麿(あの男)の強力な統制(UI)によって、あまりに完璧に最適化されすぎている。……末端の官僚一人を壊したところで、国家システムの根幹は揺るがないか」

赤山はグラスを置くと、胸ポケットから『漆黒の万年筆』を静かに取り出し、テーブルの上で弄んだ。

「まあいい。……少しずつ『外堀』を壊して、あの男と、あの男が愛する光(月)が、どんな滑稽な悲鳴を上げて壊れていくのか。……ゆっくりとサンプリング(観察)させてもらいましょう」

感情を持たない絶対的な虚無ブラックホールが、静かにその口を開き始めていた。

最強のチートを持つ者同士の、大日本帝國の崩壊を賭けた最悪のゲームが、今、幕を開ける。

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