EP 9
国家の両輪――太陽と月のパクス・ジャポニカ(第七章完)
昭和15年(1940年)秋。
世界は今、ふたつの全く異なる「色」に染まっていた。
西のヨーロッパでは、ナチス・ドイツと連合国による血みどろの戦争が泥沼化し、空からは無数の爆弾が降り注ぎ、大地は焦土の『灰色』に沈んでいた。
一方、極東に位置する島国、大日本帝國。
この国を覆い尽くしていたのは、文字通り眩いばかりの『黄金色』であった。
「……日野さーん! 今年の林檎も、過去最高の出来だべー!」
「こっちのブランド米も、帝都の三越デパートから追加発注が来ましたよ!」
長野県の山間部。かつて貧しさに喘いでいた農村は今、活気に満ち溢れていた。
輝夜が構築した『農業生産法人モデル』は、幸隆の法案成立によって全国に波及。本田宗一郎が開発した最新型の国産トラクターが田畑を駆け回り、中間搾取を排除された農民たちの懐には、これまでの数十倍の現金が直接転がり込んでいた。
もはや、娘を身売りに出す農村など日本中のどこにもない。
誰もが腹一杯の白米と肉を食い、子供たちは真新しいランドセルを背負って学校へ通い、週末には家族揃ってラジオから流れる流行歌に耳を傾けている。
その、見渡す限りに広がる黄金色の稲穂と、たわわに実る真っ赤な林檎の果樹園を、小高い丘の上から見下ろす二つの影があった。
「……ホンマに。見事な景色じゃのう、輝夜」
お忍びのハンチング帽に、着崩したスリーピーススーツ姿の近衛文麿(若林幸隆)が、ピースの煙を秋風に乗せながら、深く、深く目を細めた。
「ええ。皆が自分の足で立ち、自分の仕事に誇りを持っています。……土の匂いと、生きる喜びが満ちていますね」
アースカラーのワンピースに身を包んだ日野輝夜が、眩しそうに微笑む。
二人きりの、護衛すらいない静かな丘の上。幸隆の口からは、彼が本当に心を許した「月」に対してだけ見せる、ドス黒くも温かい『広島弁』が自然とこぼれていた。
「ワシの『覇道』だけじゃったら、この国はカネと鉄で膨れ上がっただけの、中身のねえ豚になっとったわ。……おどれの『王道』が、この国の根っこ(共同体)に水をやり、美しい骨と肉を作ったんじゃ」
幸隆は、眼下に広がる豊かな村の景色から、輝夜の横顔へと視線を移した。
「アメリカから外貨をむしり取り、ソ連から資源を吸い上げ、ワシが外の敵をすべて焼き尽くす。……そして、その莫大な富を、お前が農村の隅々にまで血液のように循環させる。完璧な国家の両輪じゃ」
「総理が、絶対に破られない『太陽の装甲』を作ってくださったからです。……暗闇に怯える必要がなくなったからこそ、皆が安心して『月』を見上げることができるのですよ」
輝夜は、持参していたバスケットから、二つの備前焼のぐい呑みを取り出した。
そして、秋の味覚である「ひやおろし(秋上がりの日本酒)」を注ぎ、一つを幸隆へと手渡した。
「……総理。あなたが一人で抱え込んでいた『史実の地獄』は、もうどこにもありません。ここは、私たちが創り上げた、世界で一番豊かで優しい国です」
幸隆は、土の温もりを感じる備前焼のぐい呑みを見つめ、そして、大きく息を吸い込んだ。
かつて現代日本で、最強の与党幹事長として政界の泥水をすすり、権謀術数の限りを尽くしてきた男。
彼がすべてを懸けて回避したかった「焼け野原の未来」は、今、完全に別の歴史へと塗り替えられた。
「……ああ。最高の趣味(国づくり)じゃったわ」
幸隆は、この世界に転生してから初めて、心の底から一切の濁りのない、晴れやかな笑い声を上げた。
「乾杯じゃ、輝夜。……ワシらの大日本帝國に」
「はい。……幸隆さん」
カチン、と土の器同士が触れ合う、心地よい音が秋の丘に響き渡る。
二人が見下ろす黄金色の国では、今日も人々の笑い声が絶えることなく続いていた。
圧倒的な武力でも、イデオロギーでもない。
「温かいメシ」と「人の繋がり」、そして「誰も切り捨てない経済」。
人間の根源的な豊かさをもって、すべての悲劇を粉砕した最強の悪党政治家と、静かなる革命家のヒロイン。
彼らが創り上げたこの絶対無敵の超大国は、やがて来る戦後の世界においても、揺るぎない世界の中心として君臨し続けることになるだろう。
その歴史の影には、常に一つの「太陽」と、それを優しく支える「月」の存在があったということを、後世の歴史家だけが密かに語り継ぐのである。




