EP 7
備前焼のぐい呑みと、ピース(平和)
昭和15年(1940年)初夏。
帝國議会における決戦を明日に控えた、深夜の帝都。
霞が関の片隅にある、古い官舎の一室。
部屋の電気は消され、窓からは初夏の夜風と、静かで澄んだ月明かりだけが差し込んでいた。
ベランダに並べられた無数のプランターからは、青々としたハーブや野菜の土の香りが漂い、かすかに焚かれたお香の匂いと混じり合っている。
「……こんな夜更けに、護衛もつけずに一人で歩き回るのは、褒められたことではありませんよ。一国の総理大臣ともあろう方が」
窓辺で月を見上げていた日野輝夜が、振り返らずに静かに言った。
いつの間にか開いていた重厚なドアの影。そこには、着崩した高級スーツのポケットに手を突っ込み、気怠そうに立つ近衛文麿(若林幸隆)の姿があった。
「SPの目を盗んで抜け出すのなんざ、ガキの頃からの特技でな」
幸隆は部屋に入ると、ドカッと古びたソファに腰を下ろした。
日本を世界最強の覇権国家に押し上げるため、孤独に権謀術数を巡らせてきた最強のタヌキ親父。その顔には、隠しきれないほどの深い疲労の色が滲んでいた。
「……おどれ、ホンマにやり切りよったな」
幸隆の口から、低く、ドス黒い、だがどこか安堵したような『広島弁』がこぼれ落ちる。
それは、輝夜と二人きりになった時にだけ見せる、近衛文麿という仮面の奥の「若林幸隆」としての真の姿だった。
「官僚どもを洗脳して完璧な法案を作らせただけじゃなく、泥にまみれて世論(大衆)まで味方につけやがって。……ワシの引いた盤面の上で、ワシを出し抜くとはええ度胸じゃ」
「出し抜いたつもりはありません。総理が作った『強すぎる太陽(覇道)』のおかげで、私の『月明かり(王道)』がはっきりと見えただけです」
輝夜は微笑むと、小棚から自作の備前焼のぐい呑みセットを取り出した。
釉薬を使わず、高温で焼き締められた土の器。彼女はその二つの器に、故郷・長野から取り寄せた冷や酒をトクトクと注ぎ、一つを幸隆の前に置いた。
「……土の匂いがする器じゃな」
「ええ。どれだけ都会がネオンで輝いても、私たちは土から離れては生きられませんから」
幸隆はぐい呑みを手に取り、冷や酒を一口あおった。
美味い。高級料亭のどんな美酒よりも、不器用で温かい、命の味がした。
幸隆は、懐から愛用のタバコ『ピース』を取り出し、火を点けた。紫煙が、月明かりの差し込む部屋にゆっくりと溶けていく。
「……ワシのやり方は、いつかこの国を焼き尽くす」
ふと、幸隆が独り言のように呟いた。
「外の化け物ども(アメリカやソ連)に食われんためとはいえ、ワシはゼニと恐怖で人を操り、地方を切り捨てて軍需を肥大化させた。……この強すぎる太陽(覇道)は、劇薬じゃ。ワシがいなくなった後、必ずこの国の精神(根っこ)を干上がらせる」
幸隆の脳裏に、彼が未来から持ち込んだ「史実の地獄(原爆の閃光と焦土)」がよぎる。
その地獄を回避するために、彼はすべての泥をかぶり、たった一人で暗闇の中を走り続けてきたのだ。誰にも、真の目的を理解されることのないまま。
「……総理は、優しすぎるのです」
輝夜は、自分のぐい呑みを両手で包み込みながら、幸隆を見つめた。
「誰も本当の地獄を見ないように、ご自分が一番深い地獄の底に立って、世界を睨みつけている。……演じている人間も、沢山演じ過ぎていて、何を演じているか分からなくなる時があるでしょう?」
幸隆のピースを持つ手が、ピクリと止まった。
彼女の目は、恐ろしいほどに幸隆の『本質』を見抜いていた。
「……人は、自分では輝けない。前に進むことができない。暗闇の中で迷い、怯え、泣く」
輝夜は、自らが紡いだポエムを、祈るように、静かに語り始めた。
「だから、月は変わらず。人が暗闇に道に迷わないように、本当の自分で有る為に……月は優しく人を照らし続ける。
大丈夫です、総理。心配しないでください。……あなたが背負った地獄(暗闇)は、私がすべて光で照らして消し去ります。だから……」
輝夜は、幸隆の隣に座り、その大きな背中にそっと自分の背中を預けた。
「どうかここ(私の隣)にいる時だけは、本当のあなたでいてください。……何度でも、必ず私が救い出しますから」
静寂。
幸隆の肺に吸い込まれたピースの煙が、深く、長く吐き出された。
「勝つこと」だけを至上の快感とし、論語も算盤も、韓非子も孫子も、すべてを政治の道具として使い潰してきた冷酷な男の目から、月明かりに反射して、一筋の透明な雫がこぼれ落ちた。
「……ワシのような大悪党を救うとは。ホンマに、おどれはとんでもない女じゃ」
幸隆は、不敵な、だがこの世界に来て一番「人間らしい」極上の笑みを浮かべた。
「明日の議会。……財閥の犬に成り下がった老害どもが、お前の法案を潰そうと手ぐすね引いて待っとるぞ」
「ええ。でも、私には『最強の共同発議者』がいますから」
輝夜が備前焼のぐい呑みを掲げる。
幸隆もまた、ぐい呑みを手に取り、カチン、と土の器同士が静かにぶつかる音を響かせた。
「……ワシが外の敵を焼き尽くし、お前が内側の闇を照らす」
幸隆は、残った冷や酒を飲み干し、ピース(平和)の煙を高く吹き上げた。
「明日の議会、二人で特大の花火を打ち上げて、この国の形を完全に仕上げるぞ。輝夜」
「はい。……幸隆さん」
太陽と月。
決して交わることのないはずの二つの光が、この夜、最も美しく強靭な一つの「絆」として結ばれた。
いざ、明日は帝國議会。
大日本帝國の真の黄金時代を切り開く、最強のバディによる「極上のざまぁ(大逆転劇)」の幕が上がる。




