EP 3
覇王の試練――盤面をひっくり返す「月」
昭和15年(1940年)初夏。
帝都・東京、某財閥の本社ビル・最上階。
「……たかが二十五の小娘一人に、我々のダミー会社が追い払われただと!?」
財閥の総帥が、高級なマホガニーの机を激しく叩いた。
「も、申し訳ありません! 奴は近衛総理の名前を保証人に使い、村を丸ごと法人化してしまいました。あの村の土地は、もう我々には手が出せません……!」
「ふざけるなッ! 我々が長年かけて借金漬けにし、軍需工場の用地として買い叩くはずだった村だぞ!」
総帥は顔を真っ赤にして激昂した。
財閥にとって、企画院の一介の調査官ごときにコケにされた事実は、絶対に許されないメンツの丸潰れであった。
「法律で守られたというなら、物理的に干上がらせてやれ。……あの村に通じる物流(トラックと貨物列車)の運送会社に手を回せ。あの村の作物は、リンゴ一個たりとも帝都には運ばせん。借金を盾にして、地元の銀行にも貸し剥がしを命じろ!」
財閥の誇る、圧倒的な資本力と権力による「兵糧攻め」。
彼らは、輝夜の作った『信州農業生産法人』を、流通と資金の両面から完全に窒息死させようと動き出した。
◆
数日後。長野県の山間部。
「ひ、日野さん! 大変だ! 手配していた運送業者が、急にトラックを出せないって断ってきた!」
「こっちもです! 銀行の支店長がやってきて、過去の融資を明日までに一括返済しろと……払えなければ、トラクターも加工場の機材も全部差し押さえるって!」
収穫期を迎えた村は、パニックに陥っていた。
箱詰めされた最高級の林檎や、ジャムやピクルスに加工された高冷地野菜が、倉庫に山積みになっている。これらを出荷して換金できなければ、村の法人は一瞬で黒字倒産してしまう。
「やっぱり、財閥の逆鱗に触れたんだ……! 俺たちみたいな貧乏人が、会社なんて作るから……!」
村長が頭を抱えてしゃがみ込む。
だが。
騒ぎの中心で、輝夜は冷や汗一つかかず、自作の備前焼の湯呑みで静かにお茶をすすっていた。
「……日野さん?」
「落ち着いてください、皆さん。……財閥が民間インフラを止めてくることなど、最初の事業計画書を引いた時点で想定内です」
輝夜は立ち上がると、集会所の黒電話を手に取った。
彼女は、この絶望的な状況が、財閥の嫌がらせであると同時に、自分を試している「あの男(幸隆)」の差し金であることに気づいていた。
総理である彼がその気になれば、財閥の物流封鎖など一言で解除できる。だが、彼は高みの見物を決め込んでいる。
(……私の『月明かり』が本物かどうか、試しているのですね、総理)
輝夜の澄んだ瞳に、絶対に引かない鋼のような光が宿る。
「もしもし。帝國海軍・横須賀鎮守府の需品部(兵站担当)でしょうか。……ええ、企画院の日野です」
村人たちがポカンとする中、輝夜は堂々たる声で電話口の海軍将校に語りかけた。
「先日ご契約いただいた『海軍艦艇向け・高級保存食(第一種軍糧)』の件ですが、現在、すべて箱詰めが完了し、村の倉庫で待機しております。……ええ、最高の出来です。長期間の洋上航海でも、兵隊さんたちに美味しい野菜と果物を食べていただけます」
輝夜の声が、ふっと一段階冷たくなる。
「……ですが、困ったことが起きまして。どうやら『一部の強欲な民間商人(財閥)』が、海軍の軍需物資である当村の作物の輸送を、不当に妨害しているようなのです。……ええ。彼らは、お国のために命を懸ける海軍兵士たちの胃袋より、自分たちの私腹を優先しているようです」
その瞬間、受話器の向こうから「なんだと!? 腐れ商人どもが、我々帝國海軍の兵站を邪魔しているというのか!!」という、将官の激怒する声が漏れ聞こえてきた。
当時、軍部(特に海軍)は、戦争の特需で私腹を肥やす財閥を蛇蝎のごとく嫌っていたのだ。
「企画院としては、海軍の皆様の健康を守るためにも、一刻も早くこの物資をお届けしたいのですが……民間のトラックが使えない以上、どうにも……」
「日野調査官! 心配無用だ!! 直ちに海軍の輸送部隊(軍用トラック)をそちらへ向かわせる! 我が海軍の軍糧輸送を邪魔する不届き者がいれば、憲兵を呼んで縛り上げてやるわ!!」
ガチャリ、と電話が切れる。
数時間後。村の入り口に、巨大な「桜と錨」のマークをつけた大日本帝國海軍の軍用トラックの車列が、土煙を上げて大挙して押し寄せてきた。
「な、なんだ!? 軍隊!?」
村を監視していた財閥のチンピラや銀行員たちが、血相を変えて逃げ出していく。
「さあ、皆さん。積み込みをお願いします。……銀行への返済は、海軍からの前払い金(軍事予算)で今日中に全額叩き返してやりましょう」
輝夜は、唖然とする村人たちに向かって、いつものように穏やかで美しい笑みを向けた。
財閥の経済封鎖を、「軍部の兵站網」という絶対的なチート権力を使って物理的に粉砕した瞬間であった。
◆
同じ頃。帝都・東京、首相官邸。
「……ガッハッハッハ!! 腹が痛い! 総理、あの小娘、なんと『海軍の軍用トラック』をパシリに使って、財閥の物流封鎖を正面からぶち破りやがりましたぞ!!」
外務大臣の吉田茂が、報告書を片手に涙を流して大爆笑していた。
「海軍向けの最高級レーション」という名目で軍部と直接契約を結び、財閥が手を出せない「軍事ルート」で帝都への物流網を確保する。それは、幸隆の予想すらも斜め上に超える、見事すぎるカウンター(算盤)だった。
「……フッ、ハハハッ!!」
幸隆もまた、声を上げて笑った。
民間(財閥)がダメなら、軍部を動かす。国を豊かにするためなら、使えるものは何でも使う。そのしたたかさは、完全に幸隆の「覇道」と同質のベクトルを持っていた。
「やるのう、あの小娘。……綺麗事(論語)を並べるだけの案山子じゃなかったってことか」
幸隆は、一人になった執務室で、ドス黒い広島弁をこぼしながらピースの煙を深く吸い込んだ。
(……じゃが、財閥の連中もこれで引き下がりはせん。次は必ず、法律と議会を使って『農業法人』そのものを非合法化しにくる)
局地戦(現場)では輝夜の圧勝だ。
しかし、国家のルールを決めるのは、帝都の「議会」である。
「……さあ、どうする輝夜。お前の『月明かり』は、この不夜城(帝都)の真っ暗な権力闘争の闇も、照らし切れるんか?」
最強のタヌキ親父の瞳に、歓喜と期待の入り混じった狂気が宿る。
一方その頃。長野の村では。
「……日野さん。東京に、帰っちまうのかい?」
村長が、小さなトランクを手にした輝夜に、寂しそうに声をかけていた。
「ええ。村の地盤は完成しました。あとは皆さんの力だけで回せます。……私は、やらなければならない大仕事がありますから」
輝夜は、帝都・東京の空を見上げた。
現場の限界。財閥を根本から黙らせ、このモデルを日本全国に広げるためには、法律を変えるしかない。
そのためには、あの「絶対的な覇王」と、直接対決しなければならないのだ。
「行ってきます。……暗闇の根源(総理)を、照らしに」
アースカラーのスーツに身を包んだ「企画院の月」が、ついに最大の戦場(霞が関)へと帰還する。
太陽と月の、国運を賭けた直接対決の時が、すぐ目の前まで迫っていた。




