EP 2
月の逆襲――論語と算盤(チートの証明)
昭和15年(1940年)初夏。
帝都・東京、首相官邸の総理執務室。
日野輝夜が静かに退出した後、近衛文麿(若林幸隆)は、誰もいなくなった薄暗い部屋で一人、デスクに残された分厚いファイルを開いた。
「……誰も切り捨てない、本当の豊かさ、じゃと? 餓鬼の寝言を……」
ドス黒い広島弁で吐き捨てながら、幸隆は輝夜が叩きつけていった『新・農業共同体モデル案』のページをめくる。
理想主義者の書いた、お花畑のようなポエムだと思っていた。農村の美しい風景を守りましょう、皆で助け合いましょうという、中身のない精神論が書かれているはずだった。
だが。
数ページをめくったところで、幸隆のピースを持つ手が、ピタリと止まった。
「……なんじゃ、これは」
そこに書かれていたのは、ポエムなどではなかった。
極めて冷徹な「マクロ経済の予測データ」と、現行の税法や企業法の『抜け穴』を徹底的に突きまくった、恐るべき利益創出のスキームだった。
『地方農村の法人化』
『中間搾取層(問屋)の完全排除と、都市部への直販ルートの開拓』
『農産物の高付加価値化(ブランド化)による利益率400%の達成』
「……この女。ただ『論語(理想)』を語っとるわけじゃない。……ワシの喉首を掻き切れるほど鋭く研いだ『算盤(経済)』を隠し持っとる……ッ!」
史実において、戦後の農協システムや、平成の時代に提唱された「六次産業化(生産から加工・販売までを一体化する仕組み)」の概念。
東京帝大で農業経済を修めた彼女は、幸隆が作った「狂乱の好景気」と「全国に張り巡らされた物流網」を逆に利用し、農村に莫大な富を直接流し込むための『完璧なビジネスモデル』を、たった一人で組み上げていたのだ。
「……クックックッ! ハハハハハッ!!」
幸隆は、備前焼の灰皿にタバコを押し付け、腹の底から愉快そうに笑い声を上げた。
「面白い。……口先だけじゃあないってことを見せてみろ、輝夜。お前のその『月明かり』が、どれほどの影を払えるか……お手並み拝見といこうじゃねえか」
◆
数日後。長野県の山間部にある貧しい農村。
日本の好景気から完全に取り残され、若者は都市部の工場へ出稼ぎに行き、残された老人たちが痩せた土地を耕すだけの「死に体の村」であった。
村の集会所では、財閥系企業の手先である強欲な地主が、村長たちに契約書を突きつけていた。
「さあ、村長さん。この痩せた土地を二束三文で全部うちの財閥に売りなさい。ここに巨大な軍需工場を建てれば、あんたたちも小間使いとして雇ってあげるからね。……どうせ、来月の税金も払えないんだろ?」
「ううっ……しかし、先祖代々の土地を……」
村長が涙を浮かべてハンコを押そうとした、その時。
「お待ちください。その契約は、法的に無効です」
集会所のふすまが静かに開き、モンペ姿に麦わら帽子を被った輝夜が姿を現した。
「なんだお前は! どこから入り込んだ!」
「企画院・特別調査官の日野です。……そして本日付けで、この村の『総合経営コンサルタント』に就任いたしました」
輝夜は、地主の前にスッと一枚の書類を差し出した。
「この村の農地はすべて、昨日付けで新設された『信州農業生産法人』の所有財産として登記移転が完了しています。……法人の代表である私の許可なく、土地の売買はできません」
「ほ、ほうじん……? 何を馬鹿なことを! こんなド田舎の百姓どもが会社を作っただと!? そんな手続き、認可が下りるはずが……!」
「現行の『産業組合法』の第十七条の特例措置と、総理肝煎りの『新興企業支援法』を組み合わせれば、即日登記が可能です」
輝夜は、備前焼のように静かで、しかし絶対に折れない瞳で地主を見据えた。
その手口は、かつて幸隆が軍部や財閥を縛り上げるために使った「法律の拡大解釈」と全く同じ、いや、それ以上に洗練されたものだった。
「それに、税金が払えないという心配には及びません。……この村で採れる『規格外の林檎』と『高冷地野菜』は、すでに帝都の最高級デパート(三越)と、海軍の軍艦向けの『高級保存食』として、五年間の独占納入契約を結んできましたから」
「なっ……!? なんだと!?」
地主の顔から、血の気が引いた。
「中間の問屋(あなた方)を通さず、村の女たちで加工場を作り、総理が整備した最新の鉄道網で直接帝都へ降ろす。……これによる村の今期の予測純利益は、現在の約三十倍に達します。工場の下請けになる必要など、どこにもありません」
完璧なロジック。完璧な根回し。
霞が関の不夜城で「企画院の月」と呼ばれた天才官僚の手腕は、泥にまみれた現場において、圧倒的なまでの「ざまぁ(既得権益の粉砕)」を引き起こした。
「き、貴様ァ! 財閥をコケにして、タダで済むと思っているのか!!」
激怒した地主が輝夜に掴みかかろうとする。
だが、輝夜は微塵も怯まず、凛とした声で言い放った。
「タダで済まないのは、あなた方です。……この契約の保証人は、内閣総理大臣・近衛文麿となっています。総理の『覇道』の恩恵を、私が末端の村にまで『王道』として行き渡らせる。……文句があるなら、首相官邸へどうぞ」
虎(幸隆)の威すらも、自らの政策のために完璧に計算して使い倒す。
そのあまりに鮮やかで冷酷な手口に、地主は腰を抜かし、逃げるように村から転がり出ていった。
「……ひ、日野さん。あんた、一体……」
唖然とする村長たちに対し、輝夜はいつもの穏やかな笑顔に戻り、温かいお茶を淹れ始めた。
「さあ、皆さん。忙しくなりますよ。……この村を、日本一豊かで、誰もが笑って月を見上げられる場所にしましょう」
◆
数日後。帝都・東京、首相官邸。
「……信じられませんな。あの小娘、赴任してたった数日で村を丸ごと『企業』に変え、財閥のダミー会社を完全に追い払いましたぞ」
外務大臣の吉田茂が、報告書を見ながら目を丸くしていた。
幸隆は、ソファでピースの煙をふうっと吐き出しながら、極悪な、しかしどこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「ワシの作った法律の抜け穴を全部使いこなし、ワシの作った鉄道網で利益を出す。……挙げ句の果てに、ワシの名前を勝手に保証人に使いやがった」
「総理。完全に一本取られましたな」
「ああ。……あいつはただのお花畑(理想主義者)じゃない。泥にまみれてカネを生み出す『本物の化け物』だ」
幸隆の三白眼が、窓の外の青空を鋭く見据える。
「吉田。……財閥の連中は、メンツを潰されて黙っちゃいないはずだ。必ず、あの村ごと輝夜を潰しにかかる」
「いかがなさいますか? 手を回して、守ってやりますか?」
「馬鹿言え。手を出したらワシの負けだ」
幸隆は、灰皿にタバコを押し付け、立ち上がった。
「……あの女が、本当にワシの背負う『地獄』を消し去れるほどの光(月)を持っているのか。……強欲な資本家どもをぶつけて、限界まで試してやる」
最強のタヌキ親父と、静かなる革命家。
二人のチートが交差する時、大日本帝國の「本当の黄金時代」を生み出すための、激しい内政バトルが次のフェーズへと進もうとしていた。




