第七章 太陽と月――「本当の豊かさ」を創る国づくり
黄金の歪みと「企画院の月」
昭和15年(1940年)初夏。
大日本帝國は今、建国以来かつてないほどの「狂騒の好景気」に沸き返っていた。
アメリカとは関税ゼロの自由貿易で莫大な外貨と物資を稼ぎ、北の超大国ソ連からはシベリアの無尽蔵のエネルギー(石油・天然ガス)をタダ同然で吸い上げている。
帝都・東京の夜は色鮮やかなネオンで不夜城と化し、本田宗一郎の組み上げた自動車が幹線道路を埋め尽くす。誰もが新しい洋服を着て、ラジオから流れる流行歌に酔いしれていた。
だが、光が強ければ強いほど、その裏に落ちる「影」もまた濃くなる。
「……次の五カ年計画ですが、農村部に残っている余剰労働力を、さらに都市部の重工業地帯へと再配置すべきですな。地方の農地など潰して、大規模な自動車工場を作ればよい」
「左様。アメリカから安い小麦が入ってくる今、国内でチマチマと米を作らせる意味はない。我が国は『工業と軍需』に特化し、世界市場を制覇するのだ」
帝都・霞が関。国家の頭脳集団が集う「企画院」の特別会議室。
巨大なテーブルを囲む財閥のトップや軍部の将官たちは、右肩上がりの経済指標(GDP)に完全に酔い払っていた。
内閣総理大臣・近衛文麿(若林幸隆)は、上座で気怠そうに葉巻をくわえながら、彼らの強欲な意見を黙って聞いていた。
史実の焼け野原(地獄)を回避し、欧米列強に付け入る隙を与えないためには、圧倒的な国力(工業力と軍事力)が必要だ。そのためには、一部の弱者(地方の農村)が切り捨てられることも辞さない。それが幸隆の選んだ『覇道』であった。
その時である。
「……お待ちください。その政策案には、致命的な欠陥があります」
重苦しい男たちの熱気を切り裂くように、静かで、しかし凛とした涼やかな声が響いた。
末席から立ち上がったのは、アースカラーの上質な麻のスーツに身を包んだ、25歳の女性官僚だった。
胸元にはアンティークのブローチがさりげなく輝き、派手さはないが、備前焼のように高温で焼き締められたような「芯の強さ」を感じさせる美しい佇まい。
企画院・特別調査官、日野輝夜。
女性への門戸が開かれていなかった東京帝國大学において、そのあまりの天才的な論文と熱意により、幸隆自身が「特例中の特例」として農学部に籍を置かせ、そのまま直属のブレーンとして引き抜いた逸材である。
「女の分際で、御前会議に等しいこの場で口出しする気か!」
陸軍の将官が怒鳴りつけるが、輝夜は微塵も怯むことなく、分厚いデータファイルを全員の前に配った。
「現在の狂乱景気の裏で、我が国の食料自給率はここ数ヶ月で急速に低下しています。……農村から若者を奪い、土を捨てさせれば、五年後に何が起きるか。共同体は崩壊し、もし何らかの理由で海外からの食料輸入がストップした場合、国民は一瞬で飢えます。国家が『根腐れ』を起こすのです」
「フン。アメリカとの条約がある以上、輸入が止まることなどあり得ん」
財閥の重鎮が鼻で笑う。
「『食』という国家の生命線を他国に依存する国が、真の独立国と言えますか?」
輝夜の澄んだ瞳が、重鎮を真っ向から射抜いた。
「数字上の利益(GDP)だけを追い求め、人の顔と土を捨てる政策は、やがて必ず内乱を引き起こします。工業化と並行して、地方の農村共同体を自立・再生させる『王道』の政策が不可欠です」
静まり返る会議室。
幸隆は、冷徹な三白眼で輝夜を見据えた。
「……日野調査官。お前の言うことは『美しい理想』だ。だがな、今は世界中が血を流している非常時だ。土いじりの綺麗事で、7000万人の胃袋を満たし、強国と渡り合えるとでも思っているのか」
表向きの、冷酷で洗練された『近衛文麿』の声。
だが輝夜は、総理大臣の圧倒的な覇気を前にしても、一歩も引かなかった。
「強さとは、鉄の数やカネの量だけではありません。人が人らしく生きる土壌があってこその『国』です」
◆
数時間後。
すっかり日の落ちた首相官邸、総理執務室。
「……失礼いたします、総理。お呼びでしょうか」
コンコン、と控えめなノックと共に、輝夜が執務室に入ってきた。
部屋の電気は半分消されており、薄暗い空間にタバコの紫煙が重く漂っている。
デスクの奥のソファに深く腰掛けた幸隆は、愛飲する『ピース』をくわえたまま、窓の外の月を見上げていた。
重厚な扉が閉まり、部屋に二人きりになった瞬間。
幸隆の纏っていた「洗練された公家」の空気が一変し、ドス黒く、血の匂いのするような「本性」が剥き出しになった。
「……おどれ、さっきの会議でワシに恥かかせる気じゃったんか?」
低く、腹の底に響くような広島弁。
それが、近衛文麿という仮面の奥に潜む『若林幸隆』という悪党政治家の、真の姿だった。
「恥などと。私は、企画院の調査官として、総理の政策の破綻リスクを正確に進言したまでです」
輝夜は動じることなく、静かに答えた。
「綺麗事抜かすなや。……外貨を稼ぎ、軍をデカくせにゃ、この国はあっという間に欧米の白人どもに食い物にされるんじゃ。農村の貧乏人どもには、後でワシが稼いだゼニをバラ撒いて黙らせりゃええ」
幸隆は、備前焼の灰皿に乱暴にタバコを押し付けた。
彼の脳裏には、史実の広島に落ちた原爆の閃光と、焼け野原になった帝都の光景が焼き付いている。あの絶対的な悲劇(敗戦)を回避するためなら、地方の農村の疲弊など、安い代償にすぎないのだ。
「バラ撒かれたカネでは、人の誇りは買えません。総理のやり方は、短期的なカンフル剤としては劇薬ですが、いずれ日本の精神を殺します」
輝夜の言葉に、幸隆は顔を歪めて立ち上がり、彼女の目の前まで歩み寄った。
「……お前、何も分かっちゃおらんのう」
幸隆の長身が、輝夜を見下ろす。その目には、すべてを背負ってきた男の底知れぬ孤独と、狂気が宿っていた。
「……この女、“地獄を知らん”」
幸隆は、吐き捨てるように言った。
「ワシがどれほどの血の池地獄を覗き込んで、テメェの手を真っ黒に汚してこの国を救おうとしとるか、分かっちゃおらん。……泥一つ被らんお前の甘っちょろい『理想』で、この国が守れると思うなや」
だが。
輝夜は、最強の権力者の殺気のような覇気を浴びても、決して目を逸らさなかった。
彼女の瞳は、暗闇の中で決して迷うことのない『月』のように、澄んだ光を放っていた。
「……地獄を見たからといって、国民に別の地獄(切り捨て)を押し付けていい理由にはなりません」
輝夜は、静かに、しかし決して折れない鋼のような意志を込めて、幸隆に宣言した。
「私が、証明してみせます。……誰も切り捨てない、本当の豊かさを創り出す力(算盤)が、私にもあるということを」
冷徹な覇道(太陽)と、温かな王道(月)。
大日本帝國の未来を分かつ、最強の政治家と若き天才官僚の「真剣勝負」が、今、静かに幕を開けた。




