EP 8
独裁者への死の宣告――バルバロッサの予告
昭和14年(1939年)冬。
極寒のモスクワ、クレムリン宮殿。
ガシャァァァンッ!!!
最高指導者の執務室で、高価なクリスタルガラスの灰皿が壁に叩きつけられ、粉々に砕け散った。
「……数万人の赤軍兵士が、シチューのために自らの将校を撃ち殺し、日本軍へ集団投降しただと……!?」
ヨシフ・スターリンは、血走った目で秘密警察(NKVD)長官のベリヤを睨み下ろしていた。
鋼鉄の大元帥と恐れられた彼の顔は、怒りと屈辱でどす黒く染まっている。
「プロレタリアート(労働者)の誇りを捨て、家畜のように資本主義の餌に群がったというのか! 全員銃殺だ! 投降した兵士の家族はすべてシベリアのラーゲリ(強制収容所)へ送れッ!!」
「し、しかし書記長同志! 前線の部隊は事実上消滅しました! 日本軍がこのままの勢いでシベリア鉄道を逆上してくれば、極東の防衛線は完全に……!」
ベリヤが悲鳴のような報告を上げようとした、その時。
執務室の重厚な扉がノックされ、外務人民委員(外相)のモロトフが青ざめた顔で転がり込んできた。
「しょ、書記長同志! 日本の駐ソ大使から、貴方宛の『極秘の親書』が届けられました! 近衛文麿総理大臣からの、直接のメッセージだと……!」
「あの極東の悪魔からだと?」
スターリンは乱暴に親書を奪い取り、封を切った。
そこには、流暢なロシア語で、スターリンの「すべてを見透かす」ような冷酷な文章が綴られていた。
『鋼鉄の大元帥、ヨシフ・スターリン殿。
極東の雪原での余興は楽しんでいただけたかな。我が軍の用意したシチューは、赤軍兵士たちに大好評だったようで何よりだ。
だが、俺と極東で遊んでいる暇など、今のアンタにはないはずだぞ』
「……フン、勝ち誇った猿の戯言を」
スターリンは鼻で笑って親書を破り捨てようとしたが、続く「箇条書きのデータ」に目を落とした瞬間、全身の血の気がサッと引いた。
『アンタの本当の死神は、東ではなく西から来る。
〇年〇月〇日(※史実のバルバロッサ作戦決行日)。
ナチス・ドイツは「不可侵条約」を一方的に破棄し、三百万人以上の兵力と三千輌の戦車をもって、ソビエト連邦への奇襲侵攻を開始する』
「な、なんだと……!?」
スターリンの目が、信じられないものを見るように見開かれる。
現在、ソ連とドイツは「独ソ不可侵条約」を結んでおり、表面上は協力関係にある。スターリン自身も「ヒトラーはすぐには裏切らないだろう」と高を括り、極東に軍を向けていたのだ。
だが、親書にはさらに恐ろしいものが同封されていた。
それは、理研の『半導体コンピューター』が完璧に解読・翻訳した、ドイツ国防軍最高司令部と前線部隊の間で交わされた『最高機密暗号の通信記録』のコピーだった。
『……作戦名・バルバロッサ。北方・中央・南方の三軍に分かれ、モスクワを電撃的に陥落させる。ソ連の劣等民族どもを絶滅させ、東方の生存圏を獲得せよ――』
「ば、馬鹿な……。これはドイツ軍の暗号文……!? なぜ、日本がヒトラーの脳内(作戦計画)をここまで正確に把握しているのだ……!!」
スターリンを持つ手が、ガタガタと激しく震え始めた。
侵攻の正確なルート、動員される師団の数、さらには空軍の爆撃目標まで。そこには、ドイツ軍の将軍たちですら一部しか知らないはずの「ソ連崩壊のシナリオ」が、一桁の狂いもなく記されていたのだ。
『アンタは猜疑心の塊だ。俺の言葉は信じなくとも、このドイツの暗号文と軍の動きを見れば、真実だと理解できるはずだ。
……もし今、アンタが極東で俺たち(日本軍)と泥沼の戦争を続けたまま、西からヒトラーの三百万人に背後を突かれたら、どうなる?』
「あ……ああ……ッ」
スターリンの脳裏に、赤軍が東西から挟み撃ちにされ、モスクワが火の海になり、自分がヒトラーと近衛文麿の手によって処刑される最悪のビジョンが鮮明に浮かび上がった。
独裁者の最大の弱点である「猜疑心と恐怖」が、限界を突破した。
『俺はアンタたちを滅ぼすことには興味がない。
もし、西からの破滅に備えたいのなら……すべてを水に流し、極東の兵を引かせてやる用意がある。
明日の正午までに、モスクワの日本大使館へ連絡を寄こせ。……最高のディール(取引)をしようじゃないか』
親書は、そこで終わっていた。
「……書記長同志。まさか、ヒトラーが本当に我々を裏切ると……!?」
モロトフが震える声で尋ねる。
「……間違いない。ヒトラーの野郎なら、やりかねんッ!」
スターリンは、完全にパニックに陥ったように自らの髪を掻き毟った。
強大な軍隊も、恐怖政治も、すべては「情報」の前に無力だった。
日本の総理大臣は、戦車を一輌もモスクワに向けることなく、たった一枚の紙切れで、ソビエト連邦という大国の命運を完全に掌握してしまったのだ。
「……日本大使館に連絡しろ。至急、講和の使者を立てるのだ!! なんとしても、極東での戦争を終わらせろ!!」
鋼鉄の大元帥が、極東の悪魔の前に完全に屈服し、白旗を揚げた瞬間だった。
◆
「ガッハッハッハ! 釣れましたぞ、総理! モスクワから悲鳴のような講和の申し入れです!」
帝都・東京。
外務大臣の吉田茂が、電報を振りかざして大爆笑していた。
「スターリンの奴、西からのドイツ侵攻の恐怖で、完全にパニック状態です。これで極東のソ連軍はすべてヨーロッパ防衛のために撤退せざるを得ませんな!」
「人間ってのは、見えない恐怖(猜疑心)を与えられるのが一番弱い生き物だからな」
幸隆は、ソファに深く腰掛け、勝利のブラックコーヒーを傾けた。
「兵站で前線の物理的な力を奪い、未来情報(暗号解読)でトップの心をへし折る。……さあ、まな板の上のヒグマを、骨の髄まで解体する時間だ」
幸隆の三白眼に、冷酷な商人の光が宿る。
「吉田。講和の条件だ。北樺太の返還はもちろん、シベリアの地下に眠る莫大な石油と天然ガスの『独占採掘権』……。すべて、タダ同然でむしり取ってこい」
西の脅威に怯えるソ連を巨大な「財布(資源庫)」に変える、悪魔の取引。
大日本帝國が、ユーラシア大陸の真の覇者として君臨するための、最悪の講和会議が始まろうとしていた。




