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EP 7

最強の心理戦――降伏チケット

昭和14年(1939年)冬。満州国境・ノモンハン方面。

夜が明け、どんよりとした鉛色の空から、白い雪に混じって「それ」はヒラヒラと舞い降りてきた。

「……空襲か!?」

「いや、爆弾じゃない! 紙だ! 大量のビラが降ってくるぞ!」

凍てつく塹壕の中で身を寄せ合っていたソ連兵たちが、空を見上げる。

上空を悠然と飛び去っていく日本の偵察機から散布されたのは、数万枚にも及ぶ『伝単(宣伝ビラ)』であった。

若きソ連兵のミハイルは、震える手で顔に落ちてきた一枚のビラを手に取った。

そこには、理研の電子計算機と翻訳チームが作成した、完璧で美しいロシア語の文章が綴られていた。

『祖国に見捨てられ、極寒の地で凍える赤軍の勇士たちへ。

諸君らの奮闘には敬意を表するが、もはや勝敗は決した。我々大日本帝國軍は、無駄な血を流すことを望まない。

このビラを持って投降した者には、以下の待遇を完全に保証する』

ミハイルは、その下に書かれた「箇条書きのリスト」を見て、息を呑んだ。

摂氏四十度の温かい風呂(入浴設備)の提供

清潔で分厚い毛布と、風の当たらない安全な寝床

牛肉の入った温かいシチュー、白パン、および甘い紅茶の食べ放題

「……食べ、放題……! 肉のシチューが……!?」

昨晩、風に乗って漂ってきた「あの暴力的までに美味そうな肉の匂い」の記憶が、ミハイルの脳内で爆発した。

それはただのビラではない。地獄の釜の底に垂らされた、蜘蛛の糸……いや、極上の『レストランの招待状(降伏チケット)』であった。

「……読んではならんッ!! それは悪辣な資本主義者の罠だ!!」

突如、激しい怒声と共に、共産党の政治将校が塹壕に躍り込んできた。

彼はミハイルの手からビラをひったくり、雪の上に叩きつけて軍靴で踏みにじった。

「こんな甘言に騙されるな! 投降したところで、奴らは我々を奴隷にするか、拷問して殺すに決まっている! 我々は誇り高き労働者の軍隊だ、最後の一兵になろうとも……!」

将校が喚き散らす中、ミハイルの隣にいた古参兵が、ふらふらと立ち上がった。

彼の目は、もはや虚ろに濁りきっていた。

「……将校同志。あなたは昨晩、こっそりと自分のテントで『ウォッカと干し肉』を口にしていましたね」

「な、何を馬鹿なことを……!」

「我々には石のような黒パンすら与えず、自分だけは温かいテントで肉を食う。……これが、あなたの言う『労働者の平等』ですか?」

古参兵の声は、静かだったが、マイナス三十度の吹雪よりも冷たかった。

「……貴様、反逆する気か! 逃げる者は私がこの場で銃殺する!!」

政治将校が顔を真っ赤にしてトカレフ拳銃を抜き、古参兵に向けた。

スターリンの軍隊における絶対的なルール。「前進(突撃)しなければ後ろから味方に撃たれる」という恐怖政治の象徴。

通常であれば、兵士たちはこの恐怖に怯え、大人しく凍死するか、無謀な突撃を繰り返すしかなかった。

だが、昨晩の「すき焼きの匂い」と、手の中にある「温かい風呂とシチューの約束」は、ソ連兵たちの理性のタガを完全に外してしまっていた。

「……腹を空かせて凍え死ぬくらいなら、資本主義の犬にでもなって、温かい肉を食ってやる!!」

ズドォォォォンッ!!!

一発の銃声。

倒れたのは、古参兵ではなかった。

ミハイルの持っていたモシン・ナガン小銃から放たれた弾丸が、政治将校の胸を正確に撃ち抜いていたのだ。

「……ミハイル……お前……」

「行くぞ! 白い布切れを探せ! 日本軍の陣地へ走るんだ!!」

政治将校の死体が雪に沈むのを合図にしたかのように、ソ連軍の陣地のあちこちで、同じような銃声と怒号が響き渡った。

「もうたくさんだ!」「メシを食わせろ!」「シチューを持ってこい!」

恐怖で兵士を縛り付けていた将校たちは、極限の飢えと欲望に駆られた兵士たちの手によって、次々と血祭りに上げられていった。

そして。

「……小隊長殿。前方から、ソ連兵が来ます! その数……数千、いや、万を超えています!!」

日本の最前線陣地。監視兵が、双眼鏡を覗き込みながら上ずった声を上げた。

「撃ち方、待て! よく見ろ、奴ら武器を持っていないぞ!」

猛吹雪の向こうから現れたのは、銃ではなく「白い布(シャツの切れ端や包帯)」をちぎれるほど振り回しながら、半狂乱で走ってくるソ連兵の群れだった。

「肉だァァァッ! シチューをくれェェェッ!!」

「降伏する! 頼むから温かい風呂に入れてくれェェェッ!!」

雪崩を打って押し寄せる、数万人の降伏兵たち。

歴史上類を見ない、一発の銃弾も交えることなく成立した「数万規模の集団投降」の瞬間であった。

日本軍の塹壕に辿り着いたミハイルたちは、最新の防寒着を着た日本兵たちから、毛布と、湯気を立てる熱いシチュー(ビーフ・ストロガノフ風に味付けされた野戦食)を手渡された。

「……あ、温かい……肉だ……本当に、肉が入っている……!!」

ミハイルは、シチューを一口啜った瞬間、雪の上に崩れ落ちて号泣した。

   ◆

「……人間の『食欲』と『生存本能』の前に、イデオロギーなんぞ紙切れ以下の価値しかないってことだ」

帝都・東京。首相官邸の執務室。

満州からの「ソ連軍、前線崩壊および数万人の集団投降」の緊急電報を受け取った幸隆は、満足げにハイライトの煙を吐き出した。

「総理。完全に我が軍のオーバーキルですな。まさか、奴らが自分たちの将校を撃ち殺してまで、シチューに群がってくるとは」

吉田茂が、呆れたように笑い声を上げる。

「腹ペコの犬の前に極上のステーキをぶら下げて、『待て』と命令する飼い主は噛み殺される。当然の理屈だ」

幸隆は、執務室の壁に掛けられた巨大な世界地図……その北に広がる広大な『ソビエト連邦』の領土を睨みつけた。

「前線は崩壊した。……さあ、今頃モスクワのクレムリンでは、スターリンの野郎が自慢の髭をむしり取らんばかりに発狂しているだろうぜ」

幸隆は、デスクの引き出しから、あらかじめ用意しておいた『一通の親書ラブレター』を取り出した。

「トドメを刺す時間だ。……狂った独裁者に、『アンタの本当の死神は、極東じゃなくて西ヨーロッパから来るぞ』ってことを教えてやろう」

腹を満たす兵站ロジスティクスで前線を崩壊させた幸隆が、次に放つ最悪の一手。

それは、半導体コンピューターの未来知識を使った、独裁者スターリンへの「死の宣告」であった。

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