EP 4
『リヴァイアサン』 ―― 大政奉還と将軍の涙
元禄17年、春。
三千人の武装した旗本たちが、町民たちの投げる石や生ゴミの前に一太刀も浴びせられず、無惨に敗れ去ったという報せは、江戸城・本丸に激震と絶望をもたらした。
「ば、馬鹿な……ッ! 我ら徳川の武威が、誇り高き武士たちが……たかが町人どもの石礫に屈したというのか!?」
御休息の間。
老中たちが青ざめた顔で震え上がり、将軍・徳川綱吉は恐怖のあまり歯の根が合わず、ガチガチと音を立てていた。
無理もない。彼ら江戸幕府の権力の源泉は、「武士は強く、恐ろしい存在である」という絶対的な前提の上に成り立っていたのだ。
そのメッキが完全に剥がれ落ちた今、江戸に住む何十万という民衆が「なんだ、侍なんて怖くないじゃないか」と気づいてしまった。
「暴動じゃ……! もしあの五万の町民たちが、そのまま江戸城に押し寄せてきたら……余たちは、一族もろとも皆殺しにされるぞ……ッ!!」
綱吉が頭を抱え、錯乱したように叫んだ。
その時。
「――ご安心なされよ、上様」
静かで、しかし圧倒的な威圧感を持った声が、パニックに陥る御休息の間に響き渡った。
丸腰のまま、ゆっくりと部屋に入ってきたのは、吉良上野介(若林幸隆)であった。
「吉良殿!!」
老中たちが、すがるような目で若林を見る。
若林は、懐から無骨な鉄の煙管を取り出し、雁首を柱に軽く打ち付けた。
――ガキィィンッ!!
その重厚な金属音が、狂乱していた幕閣たちの心を一瞬で縛り付け、強制的に冷静さを取り戻させる。
若林は、綱吉の御前の最も近い場所まで進み出ると、深く、痛ましいほどに悲壮な顔を作って平伏した。
「暴徒と化した武士どもは、我が吉良の兵がすべて捕縛いたしました。江戸の町は、すでに平穏を取り戻しております」
「お、おお……! そちが、そちが鎮めてくれたか、上野介!」
綱吉は涙目になりながら若林の手を握ろうとした。だが、若林はその手をやんわりと避け、極めて深刻な声で告げた。
「しかし、上様。今回の騒動で、一つだけ『決定的な事実』が証明されてしまいました。……それは、もはや刀や槍の武力では、この巨大に膨れ上がった国家を統治することは不可能だということです」
若林の言葉に、老中たちが息を呑む。
「……吉良殿。それは、どういう意味だ?」
「数の暴力にございます」
若林は、現代政治学の祖とも言えるホッブズの概念を、江戸の言葉に置き換えて語り始めた。
「産業が発展し、民が豊かになったことで、彼らは『知恵』と『圧倒的な数』という力を持ちました。これは、誰も逆らうことのできない巨大な怪物です。……もし、上様がこれまで通り『武士の権威』で彼らを縛り付け、税を搾り取ろうとすれば、怪物は必ず怒り狂い、江戸城を焼き尽くすでしょう」
若林の脳裏には、前世における「フランス革命」や「ロシア革命」の記憶があった。
時代遅れの王侯貴族が、民衆の力を舐めて既得権益に固執した結果、ギロチンで首を刎ねられ、あるいは地下室で一族もろとも銃殺された歴史の末路。
「上様。私は、遠い異国の歴史書で、民衆の怒りを買った王族が、広場で首を刎ね落とされ、その血に飢えた群衆が歓喜の声を上げるという地獄の光景を読みました。……私は、上様にそのような無惨な最期を遂げてほしくはないのです!!」
若林の迫真の演技と、現実に起きた「町民による武士の鎮圧」という事実が完璧にリンクし、綱吉の心に『ギロチンの幻影(究極の恐怖)』を植え付けた。
「ひっ……! い、嫌じゃ! 余は、首を刎ねられるなど嫌じゃ!!」
綱吉は畳に顔を擦り付け、ボロボロと涙を流して泣き叫んだ。
「上野介! どうすればよい!? 余が助かる道は、徳川の血を残す道はないのか!?」
(……落ちたな)
若林幸隆の目の奥で、冷酷な政治マシーンの算盤が弾かれた。
若林は、顔を上げ、救世主のような神々しい表情を作って言った。
「道は、一つだけございます。……上様自らの御意志で、政治の泥(実権)から手を引くのです」
「実権を手放す……?」
「はい。天下の政を、民の代表によって構成される『議会』へと返上するのです。これを『大政奉還』と呼びましょう」
若林は、滔々(とうとう)と語り続ける。
「政権を手放せば、民衆の怒りや政治の責任は、すべて『議会』へと向かいます。上様は安全な高みからそれを見下ろすだけでよいのです。……自ら権力を手放し、国を民に委ねた『慈悲深き伝説の将軍』として、徳川の御家は永遠に守られ、尊ばれることでしょう」
綱吉は、震える手で若林の言葉を反芻した。
政治の責任と恐怖から逃れられ、命も保証され、さらに「伝説の聖人」として歴史に名が残る。
恐怖でパニックになっている権力者にとって、それは甘く、抗いがたい『究極の逃げ道』であった。
「……上野介。そちは、余の代わりに、その『議会』とやらをまとめ上げ、泥を被ってくれるのか?」
「我が命に代えましても」
若林は、嘘八百の忠誠を誓い、深く頭を下げた。
「……あい分かった。余は、徳川の政権を、民に返上する」
綱吉が、力なく、しかし安堵の息を吐きながらそう宣言した瞬間。
老中たちが「上様ァァッ!」と泣き崩れた。
一滴の血も流さず。一発の銃弾も撃つことなく。
ただの大衆扇動の恐怖と、逃げ道を用意する話術だけで。
およそ百年続いた「江戸幕府」という強固な封建システムは、ここに完全に解体されたのである。
***
数刻後。
江戸城の長い廊下を、若林幸隆はゆっくりと歩いていた。
その後ろを、死んだ魚のような目をした側用人・柳沢吉保が、亡霊のようにふらふらと付き従っている。
「……吉良殿。貴方は……本当に、人間の皮を被った悪魔だ」
柳沢が、絞り出すような声で呟いた。
「天下の徳川家が、たった数年で、一滴の血も流さずに、自ら城を明け渡した。……こんなこと、誰が想像できようか」
若林は、足を止め、窓から見える江戸の空を見上げた。
「フン。権力者っちゅうのはな、柳沢。強がって見せても、最後は『自分の命』と『レガシー(名誉)』の二つが保証されれば、あっさりと椅子を譲る生き物なんじゃよ」
若林は懐から鉄の煙管を取り出し、火をつけた。
紫煙が、幕府の権威が消え去った江戸城の廊下へと吸い込まれていく。
「しかし、これで武士の世は完全に終わった。上様は実権を失い、貴方は『議会』とやらを作ると言った」
柳沢が、若林の背中に問う。
「民の代表が政をするなど、暴徒に国を明け渡すようなもの。貴方は、この国をどうするつもりだ?」
若林は、首だけを振り返り、柳沢に向かって極悪非道な、そして現代の政治怪物の本性をむき出しにした笑みを向けた。
「勘違いするなよ、柳沢。……ワシは『民の代表が国を治める』とは言うたが、『民が自由に代表を選べる』とは一言も言うとらんぞ」
柳沢が、ビクッと肩を震わせた。
「政治の責任はすべて民衆になすりつけ、実権(カネと法律)はワシら吉良グループが完全に握り続ける。……そのための、世界で最も美しく、最も残酷な支配システム。それが『選挙』じゃ」
若林の鉄の煙管が、カンッと鳴らされる。
「さあ、見世物の準備じゃ。……時代遅れの侍の残党どもに、現代政治の『ドブ板選挙』の恐ろしさを、骨の髄まで味わわせてやろうぜ」
大政奉還は、ゴールではない。
この国を「完全な暗黒のデモクラシー」へと染め上げるための、若林幸隆の『最強の盤面』が、いよいよ幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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