EP 5
日本初の「選挙」 ―― 自由資本党の結成
元禄17年、初夏。
「大政奉還」によって幕府が実権を手放したという事実は、瓦版を通じて日本中に知れ渡り、前代未聞の衝撃を与えた。
そして、それに続く吉良大蔵省からの布告が、江戸の町をさらなる熱狂の渦へと巻き込んだ。
『――これより、この国の政は、一定の税(吉良札)を納めたすべての民による【投票(選挙)】によって選ばれた代表者が行うものとする』
議会制民主主義の誕生である。
身分を問わず、税さえ納めていれば「一票」が与えられ、国を動かす権利を持てる。この画期的なシステムに、商人や職人、そして吉良グループの工場で働く労働者たちは狂喜乱舞した。
だが、この決定を「千載一遇の好機」と捉えた者たちがいた。
特権を奪われ、暴動を起こすも大衆の石礫に敗北し、社会の底辺で歯ぎしりをしていた旧武士階級の残党たちである。
「……フン。吉良の悪鬼め、自ら墓穴を掘りおったわ」
上野の密会所。旧幕府の大番頭であった長谷川は、同志の武士たちを集めて不敵な笑みを浮かべていた。
「民の『投票』で国の代表を決めるだと? 笑わせる。長年この国を治め、民の上に立ってきたのは我ら武士だ。町人や農民の分際で、自分たちが政治などできるわけがないと、奴ら自身が一番よく分かっておる」
長谷川の言葉に、周囲の武士たちも深く頷く。
「いかにも。我らが『武士道党』を結成し、堂々と名乗りを上げれば、無知な民草どもは必ず我らに平伏し、票を投じるはずだ!」
彼らは勘違いしていた。
「権威」さえ見せつければ、民衆はかつてのように勝手にひれ伏すのだと。
「選挙」というものが、どれほど泥臭く、えげつない『利益と欲望の奪い合い(戦争)』であるかを、彼らは全く理解していなかったのである。
***
同時刻。三河から江戸へと居を移した若林幸隆(吉良上野介)の屋敷。
そこは今、日本初の『選挙対策本部』と化していた。
壁には江戸市中の詳細な地図が貼られ、吉良義周、大石内蔵助、そしてお雪たちが集められている。
「……父上。旧幕臣たちが『武士道党』を結成し、議会の過半数を狙って多数の候補者を擁立してきたようです」
義周が、冷徹な目で集計表を見つめながら報告した。
「フン。プライドだけは一人前の連中じゃ。自分たちの家柄の威光で、楽勝できるとでも思っとるんじゃろうて」
若林は、上座で無骨な鉄の煙管を磨きながら、鼻で笑った。
「いいか、お前ら。ワシらは『自由資本党』としてこの選挙戦を戦う。……じゃがな、選挙っちゅうのは『正しいこと』を言った奴が勝つわけじゃねえ」
若林は、鉄の煙管の雁首を、江戸の地図のど真ん中に打ち付けた。
――ガキィィンッ!!
「選挙は『物理戦』じゃ。どれだけ民衆の視界に入り、どれだけ耳元で名前を連呼し、どれだけ奴らの『欲』に直接訴えかけるか。……現代政治が何十年もかけて洗練させてきた『ドブ板選挙』の極悪ノウハウを、江戸の連中に骨の髄まで教えてやるんじゃ」
若林のドス黒い広島弁が、選挙対策本部に響き渡る。
彼は、大石に向かって極悪非道な笑みを向けた。
「大石。特別保安課の業務を一時変更する。……今日からお前らは、ワシの『選挙部隊(ウグイス嬢ならぬカラス男)』じゃ。用意させたアレを出せ」
「ハッ!! 社長(党首)の御命のままに!!」
大石が合図をすると、屋敷の中庭に、布で覆われた巨大な物体が運び込まれてきた。
バサァッ、と布が取り払われる。
そこに現れたのは、イギリスの技術を応用して吉良の職人が造り上げた、黒煙を上げる『蒸気自動車』であった。
だが、ただの自動車ではない。車体の四方には「自由資本党」「天下の台所を豊かに!」「吉良上野介」と極太の筆文字で書かれた『幟』が何十本も突き刺さっている。
さらに、車体の上部には、ブリキを叩いて作った巨大な『拡声器』が取り付けられていた。
「な、なんですか、この派手で悪趣味な車は……!?」
義周が思わず顔をしかめる。
「『選挙カー』じゃ。これに乗って、朝から晩まで江戸中を走り回り、ワシの名前を鼓膜が破れるまで連呼するんじゃよ。……騒音? 迷惑? 上等じゃ。名前を覚えさせたモン勝ちなんじゃけえ」
若林は、葉巻のように太い鉄の煙管をくわえ、悪魔のように笑った。
「さあ、見世物の幕開けじゃ。時代遅れの侍どもを、大衆の熱狂で轢き殺してこい!!」
***
数日後。
江戸・日本橋の通りは、異様な喧騒に包まれていた。
「……えー、皆の衆。我ら『武士道党』に清き一票を。武士の誇りを取り戻し、国の風紀を正すため……」
道の片隅で、床几(折りたたみ椅子)にふんぞり返り、偉そうに腕を組んで演説をしているのは長谷川たち武士道党の面々であった。
彼らは自ら頭を下げることなど絶対にしない。ただ「我々に投票せよ」と命令するだけだ。当然、町民たちは遠巻きに白い目を向けて通り過ぎていく。
「ちぃっ。愚民どもめ、我ら武士の尊い志が分からぬか……」
長谷川が忌々しげに舌打ちをした、その時だった。
ポォォォォォォォォッ!!
けたたましい蒸気の汽笛と共に、大量の幟をなびかせた巨大な鉄の車(選挙カー)が、日本橋の通りに猛烈な勢いで突っ込んできた。
「な、なんだあの化け物車はァッ!?」
長谷川たちが驚愕して腰を抜かす中、選挙カーの上から、手首に数珠を巻き、吉良家のハッピを着た大石内蔵助が、巨大なブリキの拡声器を口に当てて絶叫した。
「皆様ァァーッ!! お騒がせしております! 自由資本党、自由資本党の吉良上野介でございます!!」
大石の鍛え抜かれた腹筋から放たれるバリトンボイスが、拡声器を通じて江戸の町全体をビリビリと震わせた。
「我が党首・吉良上野介は! 皆様の給金を三倍にし、水道を整備し、瓦斯灯で夜の闇を消し去ることをお約束いたします!! 古き悪しき身分制度を完全にデリートし、誰もがカネを稼げる豊かな国を創ります!! どうか、どうか吉良上野介に、皆様の清き一票をォォォォッ!!」
狂信の社畜兵士による、魂を削るような大音声の「お願い」。
決してふんぞり返らず、車の上から何度も何度も深く頭を下げる大石たちの姿に、町民たちの足がピタリと止まった。
そこへ、車が停車し、後部座席から若林幸隆が姿を現した。
彼は最高級の着物を着流しにし、人懐っこい(ように見える)満面の笑みを浮かべて、町民たちの懐へ自ら飛び込んでいった。
「おう、大工の棟梁! いつもご苦労さんじゃのう! 今度の橋の普請、吉良からたっぷり予算回しとくけえ、頼むぞ!」
「あっ、吉良様!? へへぇっ、ありがてえことで!」
「そこのおかみさん! 坊主は元気にしとるか? 医療費の助成制度(タダで医者にかかれる仕組み)、今度の議会で絶対に法案通すけえの!」
「まあっ! 吉良様、私たちなんかのために……っ!」
完璧な『ドブ板選挙』。そして、圧倒的な『利益誘導(バラマキ公約)』。
武士たちが「誇り」や「風紀」といった抽象的な戯言を並べている間に、若林は一人一人の有権者の手を握り、確実に「カネと生活の保証」という最強の麻薬を約束して回るのだ。
「すげえ……吉良様は、俺たちの暮らしを一番に考えてくれてるんだ!」
「おう! 俺たちの一票は、自由資本党に入れるしかねえ!!」
「吉良上野介! 吉良上野介!!」
瞬く間に、日本橋は若林を支持する数万人の町民たちの熱狂的な「吉良コール」に包まれた。
「な、なんだこれは……。武士である我らが無視され、あのような悪徳商人が民に崇められているだと……?」
道の隅に追いやられた長谷川たちは、圧倒的なポピュリズムの熱狂を前に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
だが、彼らはまだ、若林幸隆という『暗黒の政治家』の本当の恐ろしさを知らなかった。
表の熱狂の裏で、お雪が統括する諜報網(内閣情報調査室のプロトタイプ)が、武士道党の候補者たちの「致命的なスキャンダル」を握り、瓦版を通じて社会的に抹殺する準備を、すでに完璧に整えていたのである。
日本初の選挙戦。それは、高潔な理念の戦いなどではない。
現代政治の泥水で育った怪物が、無知な侍たちを徹底的に蹂躙する『一方的な殺戮ショー』の幕開けであった。
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