EP 2
『社会契約論』 ―― 廃刀令と「吉良国債」
元禄17年、冬。
江戸城・本丸の大広間は、かつてないほどの異様な熱気と、そして爆発寸前の「怒り」に包まれていた。
「……吉良上野介殿!! 貴殿は、自らが何を申しているのか分かっておられるのか!?」
大広間に居並ぶ数百人の幕臣、旗本たちを代表し、大番頭(おおばんがしら・幕府の軍事長官)を務める長谷川が、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
彼の視線の先、上座に近い特等席には、将軍・徳川綱吉の隣で悠然と鉄の煙管をふかす、若林幸隆(吉良上野介)の姿があった。
その手元には、先ほど将軍の御前会議で若林が提出し、綱吉があっさりと承認してしまった「二つの新法案」が置かれている。
一つ。『武士に対する俸禄(米の支給)の全面廃止。および、代替としての吉良国債の支給』。
一つ。『江戸市中における、一切の帯刀の禁止(廃刀令)』。
江戸幕府を開いて約百年。武士という特権階級の「経済的基盤」と「魂」の双方を、根こそぎ奪い取るという狂気の沙汰であった。
「我ら武士は、いざ鎌倉という時に命を懸けて公儀をお守りする盾! だからこそ、民の納めた年貢で食む(はむ)権利があるのだ! 給金を止め、あまつさえ刀を取り上げるなど、武士に死ねと申すに等しい!!」
長谷川の怒号に、周囲の旗本たちも「そうだ! 吉良は狂ったか!」「上様をたぶらかす悪魔め!」と次々に立ち上がり、大広間は一触即発の暴動寸前となった。
だが。
将軍・綱吉は、うるさそうに耳を塞ぐと、側用人である柳沢吉保に視線を送った。
柳沢は、完全に死んだ魚のような目で、淡々と告げた。
「……静まれ。すべては、吉良大殿様が上様と国家の未来を思って練り上げられた、完璧な『算盤』である」
若林は、ゆっくりと立ち上がり、鉄の煙管の雁首を大広間の柱に打ち付けた。
――ガキィィンッ!!
重く鈍い金属音が、旗本たちの怒声を一瞬で黙らせた。
若林は、ドス黒い広島弁を解放し、大広間に集まった「時代遅れの特権階級」たちを、ゴミでも見るような目で見下ろした。
「……盾じゃと? 命を懸けて守るじゃと? 嗤わせるな、穀潰しどもが」
若林は、懐から取り出した『吉良国債(債券の証書)』をヒラヒラと見せびらかした。
「お前らが腰にぶら下げとるその『鉄の棒』で、イギリスの装甲蒸気船が沈められるんか? 大砲の弾が斬れるんか? ……現代の国防に必要なのは、刀振り回して喚く蛮勇じゃねえ。最強の兵器を造り続けるための『莫大な資本』なんじゃよ」
若林の言葉は、武士たちの痛いところを正確に抉った。
先のイギリス艦隊との戦いで、幕府の武士たちはただ震えて見ていることしかできなかった。国を救ったのは、吉良の経済力と最新技術(蒸気船)だったのだ。
「ええか。お前らはただ『親の家柄が良い』っちゅうだけで、毎年何もしねえで民の税金(米)を食い潰しとるだけの、巨大な『不良債権』なんじゃ」
若林の残酷すぎる事実の突きつけに、旗本たちの顔が屈辱で土気色に変わっていく。
「これからの時代、働かざる者は食うべからずじゃ。……ワシは慈悲深いけえ、お前らの給金(米)の代わりに、この『吉良国債』を退職金代わりにくれてやる。これは吉良大蔵省が保証する債券で、持ってりゃ毎年『利子』がつく優れモンじゃ」
それは、史実の明治政府が行った「金禄公債証書」の発行と全く同じ、見事なまでの『経済的ハメ手』であった。
「じゃが、それだけで一生遊んで暮らせると思うなよ。利子で足りん分は、テメェで商売でも何でもして稼げ。……安心しろ、もう刀なんかぶら下げて肩張って歩く必要はねえ。今日からお前らも、立派な『平民』じゃ」
「ふ、ふざけるなァァァッ!!」
ついに堪忍袋の緒が切れた長谷川が、腰の刀に手をかけた。
「武士の魂を侮辱し、公儀を乗っ取る国賊め!! 上様の御前であろうと容赦せん! ここで貴様を斬り捨ててくれるわッ!!」
長谷川が抜刀しようと踏み込んだ、その瞬間。
「――業務中(御前)の帯刀、ならびに役員(大殿)への反抗的態度は、社則違反にございます」
音もなく若林の前に立ち塞がったのは、漆黒の軍服を着た大石内蔵助であった。
大石の腰には、武士の魂であるはずの刀はない。代わりに、最新式のリボルバー短銃が握られ、その銃口が長谷川の眉間にピタリと押し当てられていた。
「な、大石内蔵助……! 貴様、赤穂の筆頭家老まで務めた男が、刀を捨て、武士の誇りを捨てて、吉良の犬に成り下がったか!!」
長谷川が血を吐くように叫ぶ。
だが、大石の目には、かつての武士としての迷いや葛藤は微塵もなかった。
あるのは、資本主義と若林のカリスマに完全に脳を焼かれた、究極の社畜としての「狂気」だけだった。
「誇り? ……そのような非生産的な概念で、民の腹が膨れますか? 国が豊かになりますか?」
大石は、冷徹な声で言い放った。
「我ら特別保安課は、大殿の理念(経世済民)を実現するための『歯車』。……時代遅れの鉄屑(刀)に縋りつき、己の既得権益を守るためだけに喚く貴様らこそが、この国の成長を阻害する『悪』であると知れ!!」
カチャリ、と大石が撃鉄を起こす。
その圧倒的な殺気と、全く理解できない「資本主義の論理」の前に、長谷川は恐怖で顔を引き攣らせ、後ずさりした。
「……もうええ、大石。これ以上、城を汚すな」
若林が片手を上げると、大石は即座に短銃を収め、直立不動の姿勢に戻った。
若林は、唖然としている旗本たちを見渡し、ニヤリと極悪非道な笑みを浮かべた。
「上様(将軍)の御意志は決定した。お前らの給金は今日でストップじゃ。刀を持ったまま外を歩けば、即座に大石の保安部隊が『不法所持』で逮捕する。……文句があるなら、かかってこい。ただし、ワシら(現代)のルールでな」
若林は、綱吉に向かって深く一礼すると、義周と大石を従えて大広間を後にした。
後に残されたのは、江戸幕府の武力の中核を担っていたはずの数百人の武士たちが、ただの一滴の血も流すことなく、完全に「社会的な死」を宣告され、絶望と怒りに震える姿だけであった。
***
江戸城を出た若林たちは、待機させていた専用の蒸気自動車(吉良モーターズ製プロトタイプ)へと乗り込んだ。
「……父上。これで完全に、全国の武士たちを敵に回しましたね」
運転席に座る義周が、バックミラー越しに若林に尋ねる。
「ああ。あいつらのプライドを極限までへし折ってやった。数日以内に、必ず『武力反乱』が起きるじゃろうて」
若林は、革張りのシートに沈み込みながら、鉄の煙管に火をつけた。
「大殿! 我ら保安課にお任せを! 反逆する不良債権どもなど、ガトリング砲の連射で数分のうちにミンチにしてご覧に入れます!」
助手席の大石が、物騒すぎる提案を嬉々として口にする。
だが、若林は首を横に振った。
「駄目じゃ、大石。あいつらを武力で皆殺しにすれば、民衆の目に『悲劇のヒーロー』として映ってしまう。……政治っちゅうのはな、相手を物理的に殺すより、『民衆に石を投げさせて社会的に殺す』方が、後腐れがなくて美しいんじゃ」
若林の目に、国会で幾多の政敵を世論の力で葬り去ってきた、冷酷な『スピンコントロ-ラー』としての暗黒の光が宿る。
「『社会契約論』の最終フェーズじゃ。……驕り高ぶった侍どもが、自分たちが見下していた『民衆』の暴力に飲み込まれて無惨に散っていく様を、特等席で見物させてもらおうぜ」
元禄17年。
武士という特権階級の存在意義を根底から破壊する「廃刀令」と「秩禄処分」が発布された。
時代の変化を受け入れられない守旧派の侍たちが、最後の意地とプライドを懸けて決起する日は、もう目前に迫っていた。
しかし彼らは知らない。その反乱すらも、若林幸隆という怪物が仕掛けた『民主主義という名の処刑場』への、ただの誘導に過ぎないということを。
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