EP 10
黒幕の海 ―― パクス・ヤポニカ(超資本主義帝国の夜明け)
元禄17年(1704年)、秋。
かつて「鎖国」という温室の中で、時の流れを止めていた極東の島国は、今や世界で最も喧騒と活気に満ちた『資本主義の心臓』へと変貌を遂げていた。
「ポォォォォォォォォッ!!」
江戸の町に、寺の鐘の代わりに力強い『汽笛』の音が鳴り響く。
江戸湾から品川、そして三河へと続く海岸線には、鋼鉄のレールが敷き詰められ、その上を黒煙を上げる「陸の蒸気船(初期型機関車)」が、莫大な物資を積んで疾走している。
夜になれば、江戸の主要な街道は「瓦斯灯」の青白い光で真昼のように照らされ、吉良グループが整備した上下水道が、かつての不衛生な長屋の暮らしを過去のものとしていた。
大英帝国から巻き上げた天文学的な額の『賠償金』。
そして、オランダから強奪した知識を三河の職人たちが執念で具現化した『圧倒的な技術力』。
若林幸隆は、たった数年で江戸の町を「19世紀のロンドン」すら凌駕する近代都市へと作り変えてしまったのだ。
***
江戸湾の入り口にそびえ立つ、吉良家直轄の巨大要塞『お台場(ネオ・エド城)』。
その最上階にある、壁一面が異国製の巨大な一枚ガラスで覆われた豪奢な執務室で、日本の、いや世界の真の支配者たる男が、静かに世界地図を見下ろしていた。
若林幸隆(吉良上野介)。
かつて現代日本のドブ泥を泳ぎ切った老練なる泥棒政治家は、無骨な『鉄の煙管』をふかしながら、眼下に広がる完璧な「盤面」を眺めていた。
「……父上。大英帝国の議会より、親書が届きました」
洗練された洋装に身を包み、銀縁の眼鏡をかけた吉良義周が、恭しく一枚の書状を差し出した。
かつての冷徹な官僚は、今や世界経済を牛耳る『吉良大蔵省』のトップとして、その手腕をいかんなく発揮している。
「賠償金の第三次支払いが、ロンドンから大坂の吉良銀行へと送金(現物輸送)されました。さらに、フランス、神聖ローマ帝国、ロシアからも、『大日本帝国(吉良家)』との通商条約を結びたいと、特使が殺到しております」
「フン。大英帝国(最強の白豚)がワシらにボコボコにされて借金まみれになったのを見て、慌てて媚びを売りに来おったか」
若林は、鉄の煙管から紫煙を吐き出し、鼻で笑った。
「義周。奴らにはこう伝えろ。『日本の極上の絹と陶磁器が欲しければ、ワシらの定めた関税を払い、最新の科学と兵器の特許をすべて寄越せ』とな」
「御意。完全にこちらが主導権を握る『不平等条約』を突きつけます」
そこへ、重厚な扉を開けて、一人の男が入ってきた。
最新式のマスケット銃を背負い、黒い軍服を身に纏った大石内蔵助である。
「大殿(社長)!! 東シナ海および南シナ海における、吉良海兵隊の哨戒任務、完了いたしました!!」
大石は、ビシッと踵を鳴らして完璧な敬礼を行った。
「我が吉良の交易網を荒らそうとした清国の海賊ども、および無許可で東南アジアに侵入したヨーロッパの私掠船は、すべて我が軍の『装甲蒸気船』によって物理的に駆除いたしました! 今やアジアの海は、大殿の御威光なしには、魚一匹泳ぐことすらできませぬ!!」
狂信的な社畜兵士たちは、ついに「世界の海を管理する軍隊」へと進化していた。
武士の時代が終わりを告げたことに、大石たちに未練は微塵もない。彼らは今、武士道というちっぽけなプライドを捨て、若林という『真の君主』のもとで、国家を繁栄させるという至上のやりがいに酔いしれていた。
「ようやった、大石。だが油断はするな。世界は広い。ワシらが少しでも隙を見せれば、白豚どもは再び牙を剥く。……常に圧倒的な『暴力』で、奴らの喉元に刃を突きつけ続けろ」
「ははぁッ!!」
若林は、懐中時計を取り出し、時間を確認した。
「……そろそろ、茶の時間じゃな」
執務室の奥から、静かな足音と共に一人の少女が現れた。
洗練されたメイド服に身を包んだ、お雪である。彼女の手には、極上の宇治茶が淹れられたティーセットが乗っている。
お雪の首元には、横浜のキルゾーンで受けた銃創の痕が、痛々しく、しかし誇り高い勲章のように残っていた。
「……ご主人様。お茶が入りました」
お雪は、ティーカップを若林の前に置くと、無機質だった瞳を和らげ、ほんのわずかに、だが確かに『人間らしい温かな微笑み』を浮かべた。
「いつも、ありがとうございます。……ご主人様」
その笑顔を見た瞬間。
若林の胸の奥底に、かつての冷酷なマシーンであった頃には決して感じることのなかった、静かで、しかし確かな『熱』が広がった。
(……ワシは、また計算を間違えたようじゃな)
若林は、出された茶を一口啜り、窓の外を見つめた。
江戸湾には、煙突から黒煙を上げる『和製・装甲蒸気艦隊』が整然と並び、その向こうには、活気に満ちた江戸の巨大なメガロポリスが広がっている。
前世の若林は、冷酷な算盤で国を守ろうとし、最も信頼する腹心を見殺しにし、結果的に日本を敗戦の焼け野原へと導いてしまった。
だが、この江戸の地で、彼は算盤を叩き割り、自ら泥を被って部下を救った。
その結果が、これだ。
恐怖と計算だけで縛り付けた組織ではない。大石の狂信的な働きも、義周の完璧な経済支配も、お雪の絶対的な忠誠も。そして、不可能を可能にした三河の職人たちの執念も。
すべては、若林幸隆という一人の人間に魅せられた『情』が、歴史の壁をぶち破ったのだ。
「……フン。たまには、計算に合わんことをするのも悪うないのう」
若林は、鉄の煙管の雁首を、執務室の窓枠に軽く打ち付けた。
――ガキィィンッ。
その音は、かつての冷徹な金属音ではなく、すべてを包み込むような、重く、温かい響きを持っていた。
「父上。何か仰いましたか?」
義周が問う。
若林は、悪役としての獰猛な笑みと、真の君主としての風格を併せ持った顔で、世界地図を指差した。
「ええか、お前ら。大英帝国を泣かした程度で、満足するなよ。……世界はまだ、ワシらの『吉良札』と『技術』に飢えとる」
若林は、立ち上がり、巨大なガラス窓の向こうの青空を見据えた。
「列強どもの帝国主義は、ワシが今日、この極東の地から完全に終わらせた。……これからの時代は、大日本帝国の『算盤』が、世界を支配するんじゃ」
元禄17年。
江戸城の奥深くで将軍が安堵の眠りにつく中、お台場の巨大要塞から、世界の歴史を永遠に書き換える覇権国家が産声を上げた。
大義名分もない。武士の誇りもない。
ただ、徹底的な「算盤」と、仲間を想う圧倒的な「情」だけを武器に。
一人の老練なる泥棒政治家が歩んだ、暗黒と栄光の国盗り物語。
パクス・ヤポニカ(日本の平和と支配)の夜明けは、今、彼らの力強い足音と共に、世界の海へと広がっていったのである。




