EP 9
『君主論』の極致 ―― 覇権国家の契約書と世界の震え
元禄16年、春。
江戸湾で大英帝国の東洋艦隊が、吉良家の誇る装甲蒸気船たった一隻に完全に蹂躙された数日後。
三河国・吉良荘にある若林幸隆の茶室に、一人の白人が引きずり出されていた。
旗艦ヴィクトリア号の司令官であったスターリング提督である。彼は海上で降伏文書にサインした後、捕虜として丁重に(しかし絶対逃げられない監視下で)三河へ連行されていた。
上座で鉄の煙管をふかしているのは、日本の真の支配者たる若林幸隆。
その後ろには、冷徹な官僚・義周と、無機質な瞳の諜報少女・お雪が控えている。
「……殺せ」
スターリングは、目の下に濃い隈を作り、血走った目で若林を睨みつけた。
「海上で貴様の脅迫に屈し、降伏のサインはした。だが、大英帝国の誇りは決して折れん! こんな極東の未開な島国ごときに敗北したと本国に知れれば、私は縛り首だ。いっそここで腹を切らせろ!」
武士の切腹のようなことを喚くスターリングに対し、若林は鉄の煙管の雁首を灰吹に打ち付けた。
――ガキィィンッ!!
「フン。死んで逃げようたぁ、随分と都合のええ頭じゃな、白豚」
若林は、流暢な英語で吐き捨てるように言った。
「お前には、生きて本国へ帰ってもらう。ワシらが突きつける『本条約』の要求を、ヴィクトリア女王と議会に飲ませるための使い走り(メッセンジャー)としてな」
若林の合図で、義周が分厚い羊皮紙の束をスターリングの前に置いた。
それは、海上でサインさせた略式の降伏文書ではなく、国家間の正式な条約案であった。
「……な、なんだこれは……ッ!?」
条約案の第一項目を見た瞬間、スターリングの目が信じられないほど見開かれた。
「『第一条。イギリス東インド会社は、清国以東のアジアにおけるすべての商権を放棄し、その利権を我が大日本帝国(吉良家)へ無償で譲渡すること』……ば、馬鹿な! 大英帝国が築き上げたアジアの拠点をすべて寄越せだと!? そんな要求、本国の議会が呑むわけがない!」
「呑むさ。呑むしかないんじゃよ」
若林は、余裕の笑みを浮かべて紫煙を吐き出した。
「お雪」
「はい」
お雪が、英語で書かれた最新のヨーロッパ情勢のレポートを読み上げ始める。
「イギリス本国は現在、フランスとのスペイン継承戦争により、国家予算の数倍に達する莫大な戦費を抱えています。さらに、頼みの綱であった東洋艦隊を今回喪失したことで、株価は大暴落の危機にあります」
「なっ……! なぜ、数ヶ月も前のロンドンの経済情勢を……!?」
スターリングは驚愕で言葉を失った。
「経済テロ(偽札とアヘン)を仕掛けてきたのはテメェらじゃろうが。なら、その報いを経済で受けるのは当然の道理じゃ」
若林は、ドス黒い広島弁と英語を交えて冷酷に言い放つ。
「ええか。ワシらは今回鹵獲した十一隻のガレオン船を、すでに大石率いる吉良海兵隊に編入した。もしイギリスがこの条約を拒否するなら、あの『装甲蒸気船』を旗艦にして、インドにあるお前らの拠点をすべて火の海にして回るぞ」
スターリングの全身の毛穴から、ブワッと冷や汗が吹き出した。
(……できる。この怪物なら、絶対にやりかねない!)
装甲を施され、風を無視して動くあの「悪魔の蒸気船」を止められる大砲は、現在のイギリスには存在しないのだ。
「戦費に喘ぐ本国に、極東から『無敵艦隊』が襲来し、アジアの富が完全に絶たれる。……そんな事態になれば、イギリスの経済は確実に破綻する」
若林は、悪魔のように口角を吊り上げた。
「アジアの利権を静かに手放して『生き延びる』か。意地を張って国家ごと『破滅』するか。……議会の連中に、算盤を弾かせてこい」
スターリングは、ガタガタと震えながら条約書を見つめた。
そこにはさらに、偽札騒動の損害補填として『白銀一千万両(現在の価値で数兆円規模)』の賠償金を、十年にわたって支払い続けることが明記されていた。
140年後の幕末、あるいは清国のアヘン戦争で、アジア諸国がイギリスから押し付けられるはずだった「圧倒的搾取のシステム」。
それが今、完全に真逆の形で、大英帝国の首を締め上げているのだ。
「……悪魔だ。貴様は、人間の皮を被った……悪魔だ……」
スターリングは、完全に心を砕かれ、畳の上に泣き崩れた。
武力で蹂躙され、経済ロジックで逃げ道を完全に塞がれ、誇りすらも踏みにじられる。
近代帝国主義の傲慢な尖兵は、日本の泥棒政治家が仕掛けた『完璧な外交戦』の前に、完全敗北を喫したのである。
***
スターリングが、条約の使者として一隻のボロ船に乗せられ、本国へと強制送還された数日後。
江戸城・本丸は、異様なほどの熱気と恐怖、そして狂信的な崇拝に包まれていた。
「吉良大殿様!! 御成りィィィッ!!」
坊主たちの甲高い声が響く中、御休息の間へと続く長い廊下を、若林幸隆が静かに歩を進めていた。
これまでの彼には、将軍への「遠慮」や「演技」があった。
だが今の彼は、日本初の装甲蒸気船を建造し、世界最強の大英帝国艦隊を単機で沈めた『国の守護神』であり、同時に『すべてを滅ぼすことのできる物理的怪物』である。
「おお……! 上野介! よくぞ、よくぞ夷狄の艦隊を打ち払ってくれた!!」
御休息の間に入るなり、将軍・徳川綱吉が転がり出るようにして若林の手を握りしめ、涙を流して拝み倒した。
「すべては上様の御威光、そして三河の職人たちの執念の賜物にございます」
若林は、優雅に、しかし圧倒的な威厳を込めて頭を下げた。
その様子を、末座で平伏しながら見つめる男がいた。
側用人・柳沢吉保である。
(……終わった。もはや、誰もこの男には逆らえない)
柳沢は、畳に額をこすりつけながら、冷たい絶望と諦念に包まれていた。
イギリスの巨大艦隊を打ち破った「蒸気船」の噂は、すでに江戸はおろか日本中に広まっている。
「吉良家には、火を吹いて海を走る鉄の城がある」
その圧倒的な軍事的現実の前に、幕府の権威など完全に吹き飛んでしまったのだ。
将軍・綱吉ですら、若林を「頼れる家臣」ではなく、「逆らえば国を滅ぼされる絶対的強者」として、恐怖と依存が入り交じった感情で崇拝している。
「上野介よ! そちの功績、いかに報いればよいか! 望むものがあれば何でも申せ! 老中の座か? 領地の加増か!?」
綱吉の言葉に、若林はゆっくりと首を横に振った。
「勿体無きお言葉ですが、私は地位も名誉も望みませぬ。ただ……この国を、二度と夷狄に脅かされぬ『最強の国』にするための、少々の『権限』を頂きたく存じます」
若林の目が、キラリと妖しく光った。
「江戸湾に、さらに強固な『お台場(砲台)』を築きます。そして、江戸と三河を繋ぐ『鉄の道(鉄道のプロトタイプ)』を敷き、瓦版による『新たな通信網』を整備いたします。……これらすべての公共事業を、我が吉良家が請け負うこと、お許し願いたい」
老中たちが息を呑んだ。
それは、日本の防衛、交通、通信という「国家のインフラ(大動脈)」を、すべて吉良家が私物化するという宣言に他ならなかった。
だが、イギリス艦隊の恐怖から救われた綱吉は、二つ返事で頷いた。
「許す! すべて吉良家に任せる! 費用は公儀の金蔵から……」
「いえ。費用はすべて、イギリスからふんだくる『賠償金』と、我が吉良札で賄います。公儀には一銭の負担もかけませぬ」
若林の完璧なロジックに、綱吉は感動のあまり言葉を失い、柳沢は静かに魂の底から震え上がった。
税金(公金)すら使わず、海外からの莫大な富で国を近代化する。幕府の役人たちは、もはや吉良が何をしているのか理解することすらできず、ただ完成していく「近代化の果実」に縋りつくしかない。
「……フン。チョロいもんじゃ」
若林は、江戸城からの帰り道、懐の鉄の煙管を撫でながら、江戸の青空を見上げた。
大英帝国を屈服させ、幕府のインフラを完全に掌握した。
一人の老練なる泥棒政治家が、江戸時代を強制的に終わらせ、独自の進化を遂げる『大日本・超資本主義帝国』の礎を完全に築き上げた瞬間であった。
残すは、この世界がどのような「歪で美しい未来」を迎えるのか。
最強の君主・若林幸隆の歩む覇道の集大成となる、グランドフィナーレが、いよいよ幕を開ける。
読んでいただきありがとうございます。
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