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EP 6

『韓非子』を破る日 ―― 算盤を叩き割る君主

武蔵国、横浜村。

冷たい氷雨が打ち付ける海岸の隠し倉庫は、すでに大英帝国(イギリス東インド会社)の完全な『殺しのキルゾーン』と化していた。

「……ハァ……ッ、ハァ……」

倉庫の暗がり。積まれた木箱の陰で、お雪は自身の脇腹から止めどなく流れる血を、震える手で押さえていた。

顔面から血の気が失せ、意識が遠のきかけている。彼女を取り囲むように、数十人の外国人傭兵たちが、マスケット銃の銃口を向けてじわじわと距離を詰めてきていた。

「もう逃げ場はないぞ、ネズミめ。大人しく投降すれば、少しは楽に死なせてやる」

部隊を率いるイギリス人将校、ハミルトン大尉が冷酷に笑う。

「お前を餌にすれば、必ず吉良の私兵どもがやって来る。そこを沖合のガレオン船からの艦砲射撃で海の藻屑にしてやるのだ」

お雪の無機質な瞳が、ハミルトンを静かに見据えた。

恐怖はない。あるのはただ、冷徹な『計算結果』だけだった。

(……無駄なことです)

お雪は、心の中で静かに呟いた。

彼女が仕えるご主人様(若林幸隆)は、情に流されるような愚か者ではない。

全体最適と『算盤ロジック』を極めた、冷酷なる政治の怪物。一人の間諜コマと、組織の存亡を天秤に掛ければ、間違いなく自分を『切り捨てる』。

それが正しい。それがシステムだ。

(私は、ご主人様の役に立てた。……それで、十分)

お雪が、残された最後の力を振り絞り、自らの喉にクナイを突き立てようとした、まさにその瞬間だった。

ドゴォォォォォォォンッ!!!

夜の闇と氷雨を切り裂き、倉庫の巨大な鉄扉が、凄まじい爆発と共に内側へと吹き飛んだ。

「な、なんだッ!?」

ハミルトンと傭兵たちが驚愕して振り返る。

もうもうと立ち込める爆煙の中から、濃紺の作務衣さむえに身を包んだ男たちが、地獄の底から這い出たような殺気を放ちながら雪崩れ込んできた。

先頭を走るのは、手首に数珠を巻き、抜き身の日本刀とマスケット銃を両手に構えた狂鬼――大石内蔵助である。

「特別保安課、夜間特別業務(ド深夜の残業)を開始する!!」

大石の血走った咆哮が、倉庫内に響き渡った。

「大殿(社長)の資産に手を出した不良債権(白豚)ども!! 一匹残らず、物理的に『損金処理』してくれようぞォォォッ!!」

「ば、馬鹿な! なぜこんな少数で正面から!?」

ハミルトンが叫ぶ。

「構わん、撃て! 沖合のガレオン船に発砲の合図を送れ!!」

だが、傭兵たちが外へ向かって照明弾を撃ち上げようとした瞬間、倉庫の周囲で次々と強烈な黒煙が上がり始めた。

若林の指示により、大石たちが外に積まれていた『アヘンの入った壺』を片端から叩き割り、そこに火を放ったのだ。

猛烈な勢いで立ち上るアヘンの毒煙と氷雨が混ざり合い、視界は完全にゼロ。さらに毒煙を吸い込んだ傭兵たちが次々と咳き込み、陣形が崩壊していく。

「馬鹿め! 艦砲射撃など、視界と着弾観測スポットがなければただの花火じゃ!!」

その声は、戦場の喧騒を切り裂くように、低く、重く響いた。

煙の奥から、ゆっくりと姿を現す一つの影。

最高級の絹の着物ではない。泥にまみれ、雨に濡れた黒い外套を羽織った初老の男。

かつて現代日本のドブ泥を泳ぎ切り、冷酷な政治マシーンとして君臨した怪物、若林幸隆が、右手に硝煙を上げるフリントロック式の短銃を握りしめ、最前線に立っていた。

「……ご、主人様……?」

信じられない光景に、お雪は目を見開いた。

「なぜ……。これは、不合理です。私の命一つに、あなたが最前線に出るなど……圧倒的な、マイナス投資……」

お雪を始末しようと銃を向けていた傭兵の一人が、若林に気づき、銃口を振り向けた。

だが、若林は瞬き一つせず、手にした短銃の引き金を引いた。

ダァンッ!という銃声と共に、傭兵の眉間が正確に撃ち抜かれ、仰向けに倒れ込む。

若林は、ゆっくりとお雪の元へ歩み寄り、その血まみれの小さな身体を、己の外套で包み込むように抱き起した。

「……算盤なら、さっきワシが自分で叩き割ってやったわ」

若林のドス黒い広島弁は、かつてないほどの『人間の体温』を帯びていた。

「ええか、お雪。ワシの『システム』に、お前という部品の代わりはねえ。……ワシが生きろと言うた以上、お前の命はワシのモンじゃ。勝手に死ぬことは、ワシが許さん」

「あ……」

お雪の無機質な瞳から、初めて、ポロポロと温かい涙が溢れ出した。

親に捨てられ、世界から見捨てられた自分を、この男は『損得』をかなぐり捨てて、地獄の底まで助けに来てくれたのだ。

「……はい、ご主人様。……私、生きます……っ」

お雪を優しく抱え上げた若林は、冷酷な目でハミルトンを睨み据えた。

「大石ィ!! ワシの大事な社員かぞくを傷つけたクソ外道どもじゃ!! 弾も刀も惜しむな! 根こそぎミンチにしてしまえ!!」

「「「オオォォォォォッ!! 大殿の御為にィィッ!!」」」

若林自らが最前線で泥を被り、死地に飛び込んできた事実。それは、元・赤穂浪士たちをはじめとする吉良の社員たちの心に、狂気すら超える『究極の忠誠心』を爆発させた。

もはや給金のためではない。この『真の君主』のためなら、地獄の釜の底まで喜んで突撃できる。

「死ねェェッ! 異人ども!!」

大石が、雨と煙を突き抜けて疾走する。傭兵たちが慌てて発砲するが、大石はそれを見切り、一刀のもとに傭兵の銃身ごと首を刎ね飛ばした。

続く四十六人の決死隊が、至近距離から一斉射撃を浴びせ、すぐさま刀を抜いて白兵戦へとなだれ込む。

東インド会社の傭兵たちは、近代戦のセオリーを無視して死を恐れずに突っ込んでくる『狂信の侍たち』の前に、悲鳴を上げて次々と蹂躙されていった。

「ば、化け物どもめ……! 撤退だ! 船へ戻れ!!」

ハミルトンは完全に戦意を喪失し、残った部下を盾にして夜の闇へと逃げ出した。

「追うな、大石! アヘンと偽札の輪転機をすべて爆破しろ! 証拠を完全に灰にするんじゃ!」

若林の的確な指示が飛ぶ。

沖合のガレオン船からは、視界不良の中でやみくもに放たれた大砲の弾が、無関係な海面を虚しく叩いているだけだった。

***

数刻後。

炎上し、完全に崩壊した倉庫を背に、若林たちは無事に横浜を離脱していた。

若林の外套に包まれたまま、お雪は応急処置を受け、静かな寝息を立てている。

血と泥にまみれた大石内蔵助が、若林の前に片膝をついた。

「大殿。……敵のアジトの壊滅、完了いたしました。我ら保安課の被害は、軽傷数名のみ。奇跡的な大戦果にございます」

大石の目は、若林を「神」を見るかのような熱烈な畏敬の念で見つめていた。

「……フン。奇跡じゃねえ。ワシの指揮が完璧だっただけじゃ」

若林は、泥だらけの顔でニヤリと笑った。

(……坂上。ワシは、二度と同じ轍は踏まんぞ)

心の中で、かつて見殺しにしてしまった腹心に語りかける。

合理的な算盤システムだけでは、人間の本当の力は引き出せない。自らが泥を被り、感情で動いたからこそ、今日、彼らは限界を突破できたのだ。

「だが、これで大英帝国(白豚ども)との全面戦争は避けられん。奴らは必ず、本隊である大艦隊を江戸湾に送り込んでくるじゃろう」

若林は、懐中時計を取り出し、氷雨の降る空を見上げた。

「三河へ戻るぞ、大石。……奴らが来る前に、必ず『アレ』を完成させる。ワシらの意地と執念で、歴史の壁をぶち破るんじゃ」

冷酷な政治マシーンであった男は、今日、情を抱えた『真の君主』へと覚醒した。

彼らの熱き魂の炎は、三河で苦闘する職人たちにも必ず伝播する。いよいよ、日本初の「鉄の心臓(蒸気船)」が産声を上げる時が、すぐ目の前にまで迫っていた。

読んでいただきありがとうございます。

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