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EP 5

トラウマの顕在化 ―― 切り捨ての算盤

元禄15年、冬。

冷たい氷雨が打ち付ける、武蔵国・横浜村の寂れた入り江。

その切り立った崖の陰に隠されるようにして、巨大な木造の倉庫がひっそりと建っていた。

倉庫のはりの上。闇と同化し、息を殺して眼下を見下ろしているのは、無機質な瞳を持つ諜報のスペシャリスト・お雪である。

彼女の視線の先には、ランプの明かりに照らされた西洋式の巨大な印刷機(輪転機)と、次々と刷り上がっていく精巧な「偽造吉良札」の束があった。さらにその奥には、悪臭を放つ「阿片アヘン」の壺が山のように積まれている。

(……見つけました。ここが、大英帝国の『心臓』)

お雪は、懐から取り出した和紙に素早く見取り図と敵の配置を書き込み、小さな伝書鳩の足に結びつけた。

これを放ち、吉良邸にいる若林へと座標を伝えれば、彼女の任務タスクは完了する。

お雪が瓦屋根の隙間から、雨の夜空へ鳩を放った、まさにその瞬間だった。

ズドォォォンッ!!

轟音と共に、お雪が隠れていた梁のすぐ横の木材が、木端微塵に吹き飛んだ。

「……っ!?」

お雪の細い体が、衝撃で宙に投げ出される。咄嗟に空中で身を捻り、倉庫の床に音もなく着地したが、彼女の周囲はすでに、マスケット銃を構えた数十人の屈強な外国人傭兵たちによって完全に包囲されていた。

「やはりネズミが紛れ込んでいたか。極東の猿どもにしては、よく嗅ぎつけたものだ」

傭兵たちの奥から、豪奢な軍服を着た大英帝国の将校が、冷ややかな笑みを浮かべて進み出た。

「吉良の放った間諜だな? ……我々がこんな目立つ場所にアジトを構えたのは、お前たちを誘い込むための『餌』だ。ここを叩きに、吉良の私兵(赤穂浪士)どもがのこのこ現れれば、沖合に停泊している我が軍のガレオン船から、大砲の雨を降らせて一網打尽にしてやる手筈でな」

将校が片手を挙げると、傭兵たちが一斉に銃の撃鉄を起こした。

お雪の無機質な瞳が、瞬時に状況の『絶望的な数式』を弾き出す。

(脱出確率、一割未満。……私がここで捕まれば、ご主人様(若林)の情報を引き出すための『人質』にされる)

「……私は、ご主人様の『システム』を阻害するバグにはならない」

お雪は、一切の躊躇なく自身の太ももにクナイを突き立て、強烈な痛みで意識を極限まで覚醒させると、煙玉を床に叩きつけた。

猛烈な白煙が立ち込める中、銃声が乱れ飛ぶ。

数発の凶弾がお雪の肩と脇腹を貫いたが、彼女は血を撒き散らしながら、夜の氷雨が降る森の中へと辛くも姿を消した。

***

数時間後。江戸、本所松坂町の吉良邸。

「……お雪からの暗号文です」

青ざめた顔の吉良義周が、伝書鳩が運んできた血濡れの和紙を若林の前に広げた。

「敵の拠点は横浜の隠し港。偽札の輪転機とアヘンを確認。……しかし、敵は数十名の銃兵で待ち構えており、沖合には大砲を備えたガレオン船が停泊中。完全に『殺しのキルゾーン』です」

義周は、和紙の隅に乱れた文字で書かれた最後の一文を読み上げ、言葉を詰まらせた。

「……『当機わたしは致命傷を負い、敵の包囲下にあり。救出は組織の損害となるため、当機を切り捨て、後日、万全の態勢で拠点を砲撃されたし』……と」

その報告を聞いた瞬間、部屋の隅に控えていた大石内蔵助が、獣のような咆哮を上げた。

「大殿(社長)!! すぐに特別保安課の全兵力を横浜へ向けましょう!! お雪殿は、我が吉良グループの大切な社員かぞく!! 見殺しにするなど、絶対にありえませぬ!!」

大石は血走った目で若林に懇願した。

だが、上座に座る若林幸隆の表情は、氷のように冷酷であった。

「……駄目じゃ」

若林は、純銀の煙管から紫煙を細く吐き出し、ドス黒い広島弁で冷徹に宣告した。

「これは敵の罠じゃ。今、大石の部隊を横浜へ向かわせれば、沖合のガレオン船から艦砲射撃を浴びて全滅する。お前らが死ねば、誰が三河の蒸気機関(未来)を守るんじゃ? 誰がこの国を守るんじゃ?」

「し、しかし……ッ!!」

「算盤を弾け、大石。たった一人の間諜の命と、この国を大英帝国から守るための軍事力。どちらが重いかは、小学生でも分かる理屈じゃ。……お雪は、自らの『役割』を完璧に果たした。それで十分じゃ」

若林は、煙管の雁首を灰吹に打ち付けようとした。

『君主論』と『韓非子』の極致。情を捨て、巨大なシステム(国家)を回すためなら、いかなる犠牲も冷酷に切り捨てる。それが、現代のドブ泥を生き抜いてきた「完璧な政治怪物」の決断であった。

――カ……ッ。

だが。

灰吹に当たった煙管の音は、信じられないほど鈍く、そして弱々しく響いた。

若林の手が、微かに、だが確かに震えていたのだ。

(……なんだ? なぜ、手が震える)

若林の脳裏に、強烈なフラッシュバックが襲いかかった。

それは江戸の景色ではない。ずっと昔。前世における、現代(あるいは戦前)の、冷たい雨が窓ガラスを打つ国会議事堂の一室の記憶。

『――先生。この汚職の件は、すべて私の独断で行ったことだと遺書を残します。どうか、私を切り捨ててください』

目の前で深く頭を下げる、若林が最も信頼していた第一秘書、坂上さかがみの姿。

若林の率いる派閥を守り、ひいては『日本の政治システム』を崩壊させないため、すべての罪と泥を被って死を選ぼうとする男。

あの時、若林は冷酷な目で頷いたのだ。

『……済まん、坂上。お前の死を、必ず国益に変えてみせる』

翌日、坂上は首を吊った。

若林はその犠牲の上に立ち、権力の階段を登り詰め、日本を裏から支配する怪物となった。

「これは算盤だ。一人の命で国が救われるなら、安いものだ」

そう自分に言い聞かせ、感情を完全に殺し、血も涙もないマシーンとして生きることを誓ったはずだった。

だが、あの時からずっと。

若林の魂の奥底には、決して消えることのない『呪いのような後悔』がこびりついていたのだ。

(ワシは……また、同じ算盤を弾くのか?)

若林の脳裏に、お雪の顔が浮かんだ。

親に売られ、感情を失い、ただの「モノ」として死にかけていた少女。

若林が『お雪』という名を与え、役割を与えた時、彼女は初めて人間としての微かな「笑み」を浮かべた。

大石内蔵助もそうだ。武士の誇りをへし折られ、どん底にいた彼らは、若林の説く「未来(経世済民)」に狂信的なまでの希望を見出し、命を懸けてついてきている。

彼らは、現代の打算的な政治家たちとは違う。

若林幸隆という一人の男を、打算や保身ではなく、純粋な『魂の主君』として信じ抜いているのだ。

「……大殿」

大石内蔵助が、ギリッと唇を噛み破り、血を流しながら深く頭を下げた。

「……大殿の算盤ごけつだんが、吉良家にとっての『最適解』であることは、我ら社員一同、痛いほど理解しております。……お雪殿は、不慮の『損金』として処理いたします」

大石の声は、泣いていた。

理不尽なシステムに従わざるを得ない、かつての赤穂藩時代と同じ、無力な男の涙だった。

その涙を見た瞬間。

若林幸隆の中で、何かが決定的に、そして致命的に『崩壊』した。

(……ふざけるな)

若林は、自身の震える手を見つめた。

(ワシは、また都合の良い言い訳をして、安全な場所でふんぞり返るつもりか。システムのため? 国家のため? ……馬鹿を抜かせ。そんな呪われた算盤で築き上げる未来に、何の価値があるんじゃ)

完璧な政治マシーンであった男の瞳に、江戸に来てから一度も見せたことのない、ドス黒く、そして人間臭い『業火』が宿った。

若林は、おもむろに立ち上がると。

愛用していた純銀の煙管を、自らの手でへし折った。

バキィッ、という異音が茶室に響く。

義周と大石が、信じられないものを見る目で若林を見上げた。

「……大殿?」

若林は、へし折った煙管ルールを畳に投げ捨て、ドス黒い広島弁で、低く、獣のように唸った。

「大石。義周。……ワシの命令を訂正する」

若林は、壁に飾られていた最新式のフリントロック式短銃ピストルを手に取り、自らの懐にねじ込んだ。

「ワシら吉良の算盤はな、社員かぞくを見捨てるようなセコい計算はせんのじゃ。……お雪を助けに行くぞ。大英帝国の白豚どもを、一匹残らず皆殺しにしてやれ」

「ッ……!! 大殿ォォォッ!!」

大石内蔵助が、歓喜と狂信の入り交じった絶叫を上げた。

かつて、冷酷なマシーンとして腹心を切り捨てた男が、歴史の壁を越え、初めて己の「感情」で算盤を叩き割った。

無敵の怪物が、その身に「情」という名の弱さを宿し、だがそれゆえに『真の君主』へと覚醒した瞬間であった。

氷雨の降る横浜のキルゾーンへ向け、若林幸隆と狂信の軍団が、かつてない殺意を纏って出撃する。

読んでいただきありがとうございます。

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