EP 4
大英帝国の牙 ―― 経済テロと忍び寄る「毒」
元禄15年、冬。
蒸気機関の開発が「歴史の壁」にぶち当たり、三河の実験棟で連日連夜の試行錯誤が続く中。日本の心臓部である江戸と大坂の商いの中枢に、目に見えない『致死の毒』が静かに回り始めていた。
「……申し訳ねえが、この『吉良札』は受け取れねえ」
大坂・堂島の米市場。
米問屋の番頭が、大口の買い付けに来た商人の差し出した「吉良札(百両札)」を冷たく突き返した。
「な、なんだと!? 天下の吉良札だぞ! 公儀の小判より信用がある手形を、なぜ受け取らん!」
「その信用が揺らいでるんだよ! 見てみやがれ、こっちが本物。で、お前さんが持ち込んだのがコイツだ」
番頭は、二枚の札を光に透かして見せた。
肉眼では全く見分けがつかない。吉良家の複雑な家紋も、筆の払いの掠れ具合も、すべてが完璧に模写されている。だが、特殊な墨の匂いと、紙の繊維の『手触り』だけが、ほんのわずかに異なっていた。
「……偽札、だと!?」
「ああ。ここ数日、大坂中にこの『極めて精巧な偽札』が大量に出回って大混乱なんだよ。吉良の御本家が真贋を保証してくれるまで、怖くて吉良札なんざ扱えねえ!」
同じような光景が、江戸の日本橋でも、長崎の交易港でも同時多発的に発生していた。
現代経済における最も恐ろしい現象。すなわち「通貨信用不安」の連鎖である。
***
江戸、吉良邸。
冷酷な官僚マシーンとして覚醒した次期当主・吉良義周の額に、かつてないほどの濃い脂汗が浮かんでいた。
「……父上。事態は極めて深刻です」
義周は、持ち込まれた数十枚の「偽造吉良札」を、若林幸隆の前に並べた。
「偽札の総額は、すでに数万両規模に達していると推測されます。問題は、この偽札の『質』です。江戸の浮世絵師や偽造職人の手によるものではありません。これは……『銅版画』。西洋の最新鋭の印刷機と、特殊なインクが使われています」
若林は、純銀の煙管を手にしたまま、並べられた偽札を無言で見つめた。
「このまま偽札が市場に溢れれば、吉良札の価値は暴落し、ハイパーインフレを引き起こします。我が吉良家の資金は紙屑となり、蒸気機関の開発はおろか、幕府の財政そのものが数ヶ月で完全に崩壊します……!」
義周の声には、システムが崩壊することへの明確な『恐怖』が混じっていた。
だが、報告はそれだけでは終わらなかった。
「大殿(社長)!! 緊急の業務報告にございます!!」
障子を乱暴に開け、元・赤穂藩家老であり、現在は吉良グループ特別保安課のトップである大石内蔵助が転がり込んできた。
大石の顔は、かつてないほどの激しい怒りに満ちていた。
「長崎および大坂の港湾部門における、我が社の労働者たちの一部が、突如として『使い物にならなく』なりました!」
「使い物にならんじゃと? 労組でも組みおったか」
若林が煙管を咥えたまま問う。
「違います! 彼らは……妙な『泥』のようなものをキセルで吸い、一日中夢うつつになって、まともに立ち上がることもできない廃人と化しているのです! 問いただしたところ、異国の商人からタダ同然でバラ撒かれた『魔法の薬』だと……!」
大石が懐から取り出し、床に置いた小さな壺。
そこからは、甘ったるく、そして人間の脳髄を直接腐らせるような、独特の悪臭が漂っていた。
その匂いを嗅いだ瞬間。
若林幸隆の目の奥に、絶対零度の冷酷な光が宿った。
「……『阿片』じゃな」
「アヘン……?」
義周と大石が、聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「ケシの花から抽出される、人間の脳を破壊する麻薬じゃ。一度吸えば二度と手放せなくなり、最後は廃人になって死ぬ」
若林は、懐中時計を取り出し、カチカチと動く針を見つめた。
イギリス東インド会社。のちに清国(中国)にアヘンを大量に密輸し、国民を廃人にし、銀を奪い尽くして『アヘン戦争』を引き起こす、世界最強の悪徳企業。
「偽札で国家の『血(経済)』を抜き、アヘンで国家の『肉体(労働力)』を腐らせる。……大砲を一発も撃たず、相手の国を内側から崩壊させて植民地にする、帝国主義の常套手段じゃ」
若林は、煙管の雁首を灰吹に強く打ち付けた。
――カンッ!!
「フン。オランダの田舎商人を追い払って特区を作ったせいで、本丸の白豚どもを本気にさせてしもうたようじゃな」
義周が息を呑む。
「父上……! このままでは、我が吉良のシステムは完全に破壊されます。すぐに公儀の力を使って、アヘンと偽札の取り締まりを……!」
「馬鹿を言え。そんな泥縄式の対応で防げるほど、大英帝国の工作は甘かねえ」
若林は、ドス黒い広島弁で義周を一喝した。
「市中に出回った毒を一つ一つ回収してもキリがねえ。偽札の『印刷機』と、アヘンの『密輸拠点』。……毒の湧き出る『心臓』を特定し、物理的に消し飛ばす以外に、この経済テロを止める方法はない」
若林は、部屋の隅の暗がりへ向かって声をかけた。
「お雪」
「……ここに」
音もなく、無機質な瞳を持つ諜報のスペシャリスト・お雪が姿を現した。
「江戸中の瓦版屋、浮浪者、遊女……お前の持つすべての『目』を使え。イギリスの犬どもが、どこで偽札を刷り、どこからアヘンを運び込んどるか。その『アジト』を特定しろ」
「御意」
お雪が深く頭を下げる。
「大石。お前は保安課の兵を完全武装させ、三河の蒸気機関の実験棟を死守しろ。……奴らの最終目的は、我が国が『近代化』するための技術の芽を摘むことじゃ。絶対に近寄らせるな」
「ははぁっ!! この命に代えましても、不良債権どもを駆除いたします!!」
若林は、アヘンの入った壺を煙管の先で弾き飛ばし、粉々に砕いた。
「野蛮な東洋の島国じゃと舐めてかかってきやがったが……上等じゃ。現代のドブ泥を泳いできたワシに『見えない戦争』を挑んだこと、死の底から後悔させてやるわい」
老練なる泥棒政治家の顔に、ゾクッとするほどの殺意と、極上の「暇つぶし」を見つけたような歓喜の笑みが浮かんだ。
大英帝国の経済テロに対する、若林幸隆の非情なるカウンターが、今、静かに始動した。
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