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EP 3

『学問のすゝめ』の壁 ―― 吹き飛ぶボイラーと溶ける金

元禄15年、秋。

三河国・吉良荘に新設された巨大な建造物群。そこは、日本中の蘭学者、からくり師、刀鍛冶、そしてオランダから引き抜かれた技術者たちが日夜研究に没頭する、吉良家直轄の研究機関――通称『吉良帝国大学』であった。

その最も奥にある実験棟で、今、歴史の針を強引に進めるための「儀式」が行われようとしていた。

「……圧力、規定値まで上昇。蒸気弁、開きます」

オランダ人技師のヤンが、片言の日本語で叫びながら、巨大な鉄の塊に取り付けられたレバーを引いた。

若林幸隆(吉良上野介)の現代知識(概念)と、オランダから持ち帰った設計図を元に造られた、日本初の『蒸気機関』の試作機である。

石炭が赤々と燃え、ボイラー内の水が沸騰する。

発生した蒸気が、分厚い鉄のシリンダーへと送り込まれ、ピストンを押し上げようとする。

「いけっ……! 動けェッ!!」

このシリンダーの鋳造を担当した江戸随一の鉄砲鍛冶・鉄五郎てつごろうが、祈るように叫ぶ。

シリンダーが軋む音を立て、巨大なピストンがわずかに上へと動いた。

「おおっ!?」

周囲で見守っていた職人たちから、歓声が上がりかけた、その瞬間だった。

――ピシィィィッ!!

不吉な亀裂音が、実験棟に響き渡った。

鉄のシリンダーの側面にヒビが入り、そこから高圧の蒸気が猛烈な勢いで吹き出したのだ。

「いかん! 圧が限界を超えとる! 伏せろ!!」

若林が叫んだ直後。

ドゴォォォォォォンッ!!

耳をつんざく爆発音と共に、試作機が木端微塵に吹き飛んだ。

高温の蒸気と鉄の破片が飛び散り、実験棟の屋根を吹き飛ばす。猛烈な黒煙と粉塵が立ち込め、職人たちの悲鳴が上がった。

***

「……怪我人はおらんか!」

若林が、純銀の煙管で煙を払いながら立ち上がった。

幸い、若林の指示で強固な防爆壁を作らせていたため、死者は出ていない。だが、何ヶ月もかけて造り上げた巨大な試作機は、無惨な鉄屑と化していた。

「父上……」

煤で顔を汚した義周が、片手に算盤を持ったまま、感情のない声で報告した。

「今回の爆発で、三号機が全損。オランダから輸入した鉄材、職人への給金、石炭代……すべて合わせて、金にして千両(約一億円)が、たった数秒で文字通り『煙』となりました」

重苦しい沈黙が落ちた。

「だから言ったのです、ご主人様」

オランダ人技師のヤンが、首を横に振って溜息をついた。

「図面通りに造るのは簡単です。しかし、この国の『鋳造技術』では、高圧の蒸気に耐えうるシリンダーは絶対に造れない。日本の鉄は、刀や鉄砲には向いていても、巨大な密閉容器を均一に造る精度テクノロジーがないのです。これは……歴史の限界です」

ヤンの言葉に、鉄五郎をはじめとする日本の職人たちが、悔しさに唇を噛み締め、血が滲むほど拳を握りしめた。

「申し訳、ございませぬ……ッ!!」

鉄五郎が、煤だらけの顔を歪ませ、若林の足元に土下座した。

「大殿様からあれほどの莫大な御金おあしを頂戴しながら……我らの腕が未熟なばかりに……っ! どうか、どうかこの鉄五郎の首で、お許しを……!」

他の職人たちも、次々と土下座し、涙を流した。

武士の時代。主君の命と莫大な資金を三度も無駄にすれば、打ち首になっても文句は言えない。

義周の目が、冷酷な官僚のそれに変わり、「父上。これ以上の投資は『不良債権』になりかねません。計画の凍結を」と進言した。

だが。

若林幸隆は、全く表情を変えることなく、懐からオランダ渡りの懐中時計を取り出し、時間を確認した。

そして、ゆっくりと煙管の雁首を、ひび割れた鉄の残骸に打ち付けた。

――カンッ!!

「……顔を上げい、鉄五郎。誰がお前を斬ると言うた」

若林の声は、怒りではなく、どこか呆れたような、しかし底知れぬ凄みに満ちていた。

「失敗? 不良債権? ……馬鹿を抜かせ。ワシから言わせりゃ、これはただの『データ収集』じゃ」

若林は、ドス黒い広島弁で義周と職人たちを見据えた。

「ええか。政治も技術も、一発で成功する魔法なんぞこの世にはねえ。失敗したなら、なぜ割れたのかを調べろ。鉄の配合が悪いなら、百通りでも千通りでも試せ。……『歴史の壁』じゃと? 嗤わせるな。壁があるなら、カネと執念で物理的に叩き壊すまでじゃ!」

若林は、義周に向かって言い放った。

「義周。吉良札の輪転機をフル稼働させろ。実験の予算を今の『十倍』に引き上げる。必要なだけの金銀を溶かして、この三河に注ぎ込め!」

「じゅ、十倍……っ!? しかし、それでは吉良家の財政が……!」

「構わん。吉良の財産がすっからかんになろうが、借金まみれになろうが、この『蒸気機関』さえ完成すれば、世界中の富がワシらの足元にひれ伏すんじゃ。……ワシは、その未来に全ツッパしとる」

現代のドブ泥の政界を泳ぎ切り、国家予算(数兆円)を動かしてきた男のスケールは、江戸時代の常識を遥かに凌駕していた。

彼は技術の壁を前にして諦めるどころか、「カネ(資本)」という名の暴力で、無理やり歴史の扉をこじ開けようとしているのだ。

若林は、呆然としているヤンと鉄五郎の肩を叩いた。

「ヤン。お前の西洋の鋳造理論と、鉄五郎、お前ら日本の刀鍛冶が持つ『鉄を鍛える執念』。その二つを悪魔合体させろ。……百回爆発しようが、千回失敗しようが、ワシが何度でもカネを出しちゃる。お前らはただ、ワシの描く『未来』を形にすることだけを考えろ!」

「大殿様……ッ!!」

鉄五郎の目から、煤と涙が混じった大粒の雫がこぼれ落ちた。

絶対に許されないと思っていた大失敗。しかし目の前の化けパトロンは、怒るどころか「予算を十倍にするから何度でもやれ」と笑ったのだ。

職人としての魂に、これ以上ないほどの『業火』が点火された瞬間であった。

「やりまする……! この命に代えましても、必ずや、大殿様の『鉄の心臓』を打ち出してみせまする!!」

「オーマイゴッド……。この老人、本当にクレイジーだ……!」

ヤンもまた、若林の圧倒的なカリスマと資本力に脳を焼かれ、狂ったような笑いを漏らした。

***

「……フン。良い顔になりおったわ」

若林は、再び猛烈な勢いで議論と作業を再開した職人たちを背に、実験棟を後にした。

彼の五つの哲学の一つ、『学問のすゝめ』の実践。それは単に本を読むことではなく、血と汗と莫大なカネを流して「実学」を己の血肉にする過程そのものであった。

だが、若林が吉良邸の自室に戻った時。

闇の中から音もなく姿を現したお雪が、感情のない、しかし極めて冷酷な報告をもたらした。

「……ご主人様。どうやら、私たちの『時間の猶予』は、あまり残されていないようです」

「なんじゃ、お雪。幕府の狸どもが嗅ぎ回っとるのか?」

若林が煙管に火をつけながら問うと、お雪は首を横に振った。

「いえ。敵は江戸城にはいません。……『海の外』です」

お雪は、数枚の瓦版と、大坂の市場からかき集めた奇妙な「札」を若林の前に並べた。

「オランダとの独占取引を出し抜かれた『大英帝国(イギリス東インド会社)』が、我が吉良家の経済支配を崩すため、暗躍を始めました。江戸市中に、極めて精巧な『偽造吉良札』が大量にばら撒かれています。このままでは、数ヶ月以内にハイパーインフレが起き、吉良家の信用は完全に崩壊します」

若林の目が、スッと細められた。

「さらに、長崎と大坂の裏社会で、異国の麻薬『阿片アヘン』が流通し始めています。……物理的な武力ではなく、完全な『経済テロ』。我が国を内側から腐らせるつもりです」

イギリス東インド会社。

後の清国を「アヘン戦争」で骨の髄までしゃぶり尽くす、世界最強の悪徳帝国主義企業。

彼らがついに、極東の島国で規格外の利益を上げる「吉良上野介」という怪物を、最大の標的と定めて牙を剥いたのだ。

若林は、並べられた偽札を一枚手に取り、煙管の火を押し当てて燃やした。

「……フン。技術の壁にぶち当たっとる時に、一番面倒な『劇毒』を仕込んできやがったな」

燃え尽きる偽札を見つめながら、若林の口元に、久方ぶりの「本気の殺意」を孕んだ笑みが浮かんだ。

「上等じゃ、白豚ども。ワシが本物の『経済戦争』の恐ろしさを、テメェらの体に直接叩き込んじゃるわい」

元禄15年。

未完成の蒸気機関と、忍び寄る大英帝国の経済テロ。

世界最強の「泥棒政治家」と「帝国主義」による、一滴の血も流さぬ、しかし国家の命運を懸けた壮絶な戦争の幕が切って落とされた。

読んでいただきありがとうございます。

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