EP 2
『論語と算盤』 ―― カピタンの絶望と「知識」の爆買い
元禄15年、初夏。
幕府から「特別交易領(経済特区)」として正式な認可を受けた三河国・吉良荘の港に、一隻の巨大な黒い影が錨を下ろしていた。
オランダ東インド会社の武装商船である。
商館長であるディルクは、船の甲板から三河ののどかな景色を見下ろし、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべていた。
「ハッ! 鎖国で引きこもっていた東洋の猿どもが、パニックを起こして港を開いたと聞いて来てみれば……ただの田舎の漁村ではないか」
ディルクは、通訳の男に向かって傲慢に言い放った。
「長崎のうるさい役人を通さず、直接取引ができるのは好都合だ。どうせこの特区を任された『キラ』とかいう老貴族も、ガラス玉や安いビロードを見せれば、目を輝かせて日本の金銀を差し出すに決まっている。骨の髄までしゃぶり尽くしてやろう」
大航海時代を生き抜いてきたオランダ商人にとって、極東の島国など「無知で騙しやすいカモ」でしかなかった。
やがてディルクは、数人の護衛と通訳を引き連れ、港に急造された吉良家の商館へと足を踏み入れた。
上座には、豪華な着物を着た初老の男――吉良上野介(若林幸隆)が、静かに茶を啜っていた。その後ろには、冷徹な目つきの青年(吉良義周)と、無機質な瞳を持つ小柄な少女(お雪)が控えている。
「お初にお目にかかる、吉良殿。私がオランダ東インド会社の……」
ディルクが仰々しく挨拶を始めようとした、その時。
「挨拶は不要じゃ。時間がもったいない」
若林は茶碗を置き、懐から純銀の煙管を取り出した。
「お前らが船に積んできた『商品』の目録は、すでに我が手の者が調べさせてもろうた。……ガラス細工、毛織物、香辛料、そして少々の鉛じゃな」
ディルクは眉をひそめた。なぜ入港したばかりで積荷の内容を正確に把握しているのか。
だが、すぐに気を取り直し、芝居がかった手つきでガラスのゴブレットを取り出した。
「いかにも! この透明な器は、欧州の最新技術で作られた……」
「義周。この『ゴミ』はいくらになる?」
若林が冷たく問うと、背後の義周が一切の感情を交えずに算盤を弾き、即答した。
「我が吉良家が現在握っている『大坂の相場』と、長崎での過去十年の取引記録を照合しますに……適正価格は銀二枚。ですが、現在日本国内では硝子細工の需要は低下しており、買い叩けば銀一枚でも十分かと」
「なっ……! ゴ、ゴミだと!? この美しい細工が……」
ディルクは顔を真っ赤にしたが、若林は煙管の雁首を灰吹に打ち付けた。
――カンッ!!
甲高い金属音が、商館の空気を一瞬で凍りつかせた。
若林は、ドス黒い広島弁を解き放ち、ディルクを獲物を狙う鷹のような目で見据えた。
「ええか、白豚。おどりゃあ、ワシらを『何も知らん土人』じゃとでも思っとるんか? ……お前らが今、本国でどれだけ『首が回らん状態』になっとるか、ワシが知らんと思うなよ」
若林の言葉に通訳が震え上がりながら訳を伝えると、ディルクの顔からスッと血の気が引いた。
「お雪。読み上げろ」
「はい」
お雪が、懐から一枚の瓦版の裏紙を取り出し、淡々と読み上げ始めた。
「西暦1700年、スペイン王カルロス二世の崩御に伴い、フランスのルイ十四世が王位継承を主張。これに対し、オランダ・イギリス・神聖ローマ帝国が対仏大同盟を結成。……現在、ヨーロッパ全土を巻き込む『スペイン継承戦争』が勃発中。オランダ東インド会社も莫大な戦費の拠出を強いられ、資金繰りは火の車にあります」
「なっ!? な、なななななぜ、極東の島国で、数ヶ月前のヨーロッパの最新の情勢を……!?」
ディルクは、幽霊でも見たかのように目を見開いた。
長崎の出島に滞在するオランダ人たちから、お雪の諜報網が酒とカネで執念深く聞き出した断片的な情報。それを、現代の政治家としての『世界史の知識』を持つ若林が完璧に繋ぎ合わせ、現在のヨーロッパの勢力図を完全に再現していたのだ。
若林は、ニヤリと極悪非道な笑みを浮かべた。
「お前らは今、喉から手が出るほど『戦費』が欲しいはずじゃ。じゃが、そんなガラス玉や香辛料みたいなモンで、ワシらが大事な金銀を払ってやる義理はねえ」
「ば、馬鹿な! ならば交易は打ち切りだ! 貴国は我々がもたらす外の物資なしで……」
「ええぞ。帰れ」
若林はあっさりと手を振った。
「お前らが帰るなら、ワシはすぐに『イギリス東インド会社』に使いを出すだけじゃ。あいつらに三河の塩の専売権と、日本の金銀を優先的に回してやれば、喜んでフランスやオランダの船を沈めてくれるじゃろうて」
「ひっ……!」
ディルクの膝がガクンと折れた。
もしここで取引に失敗し、莫大な富を敵国であるイギリスに奪われれば、オランダは戦争に負け、ディルクは本国で縛り首になる。
完全に『詰み』であった。
目の前にいる老人は、無知な東洋の猿などではない。世界の経済と戦争のカラクリを完全に理解し、相手の最も痛い急所を的確に握り潰してくる、血も涙もない『悪魔』だ。
「……ま、待ってください! 吉良殿! な、何をお望みですか!? どうすれば、我々と取引を……っ!」
ディルクは、プライドも何もかも投げ捨て、畳の上に這いつくばった。
若林は煙管から紫煙を細く吐き出し、冷酷に宣告した。
「一つ。ワシら吉良家が定めた関税を100パーセント受け入れること。
二つ。貴様の船に積んである『最新の科学書、医学書、冶金学、造船技術の書物』をすべて置いていくこと。
三つ。本国の出世競争に敗れて左遷された、優秀な『技術者』どもを、我が吉良家に割譲すること」
それは、史実の幕末において日本が押し付けられた不平等条約を、完全に逆転させた『超・不平等条約』であった。
「ワシが欲しいのは、お前らのガラクタじゃねえ。お前らの『脳みそ(知識)』じゃ」
若林は、義周から受け取った分厚い契約書をディルクの前に投げ捨てた。
「ワシの条件を呑むなら、この『吉良札』を使って、我が領地の極上の塩と、望むだけの金銀をくれてやる。……さあ、サインしろ。白豚」
ディルクは、ガタガタと震える手で羽ペンを握り、泣きながら契約書にサインをした。
圧倒的な情報力と、経済的優位性。現代の泥棒政治家による、一滴の血も流さぬ「国盗り」が、ついに世界を相手に牙を剥いた瞬間であった。
***
ディルクたちが逃げるように船へ戻った後。
吉良家の商館には、オランダ船から巻き上げた山のような洋書と、困惑した顔の数人の外国人技術者たちが残されていた。
「……父上。これほどの異国の書物、どうなされるおつもりですか? 我らには読むこともできませぬが」
義周が、高く積まれたオランダ語の書物の山を見上げて尋ねた。
若林は、純銀の煙管を懐にしまいながら、狂気と野望に満ちた笑みを浮かべた。
「読めんのなら、読める奴を日本中から集めればええ。武士の面子も、身分の上下も関係ねえ。……実学でカネを稼げる『頭脳』だけをかき集め、この国を根底から作り変えるんじゃ」
若林は、オランダから巻き上げた『蒸気機関の概念図』が描かれた書物の表紙を、愛おしそうに撫でた。
「待っとれよ、世界(列強)ども。お前らが産業革命だの帝国主義だのでアジアを食い物にする前に、ワシがこの国を、テメェらが束になっても敵わん『最強の怪物』に育て上げちゃる」
元禄15年。
世界の歴史が、若林幸隆という一人のバケモノの算盤によって、約100年分の時間を強引にスキップしようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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