第十三章 大航海・超重商主義編
『孫子』第一手 ―― 偽りの黒船と「鎖国」の終焉
元禄15年(1702年)、春。
江戸城を裏から完全に掌握し、日本の「影の支配者」として君臨した若林幸隆(吉良上野介)は、本所松坂町の吉良邸・茶室にて、一枚の巨大な紙を見下ろしていた。
オランダ商館から極秘に取り寄せた、最新の『世界地図』である。
「……狭いのう」
若林は、純銀の煙管から紫煙を吐き出し、日本列島を指先でトントンと叩いた。
「大石たちが三河の塩田をフル稼働させ、義周が『吉良札』で江戸の経済を回しとる。ワシらの資金力はすでに幕府の御金蔵を上回ったが……所詮は、この狭い島国の中でのコップの嵐じゃ」
若林の背後には、次期当主として冷徹な官僚に育った吉良義周と、無機質な瞳を持つ諜報のトップ・お雪が控えている。
「父上。まさか、次なる商いの舞台は……『海外』にございますか?」
義周が、世界地図を見つめながら尋ねた。
「当然じゃ。現代資本主義において、国内市場の飽和は『死』を意味する。真の富は、外から奪い、外へ売ることでしか得られん。……じゃが、この国には面倒な『法律』があるからのう」
「『鎖国』、ですね」
お雪が感情のない声で補足した。
「長崎の出島でのみ、オランダと清国との細々とした交易が許されている。公儀の絶対法です。これを破れば、いかに大殿様でも謀反の罪に問われます」
「フン。法律などというものは、 おびえた人間が書いたただの紙切れに過ぎん。破るのが不味いなら……『ルールそのものを書き換えさせる理由』を作ってやればええんじゃ」
若林は、煙管の雁首を灰吹に打ち付けた。
――カンッ!!
「お雪。例の『仕込み』は終わっとるな?」
「はい。長崎の地役人を金で抱き込み、オランダ船の船乗りたちに『台本』を読ませました。すでに、火種は江戸の町に放たれております」
若林幸隆の極悪非道な顔に、獰猛な笑みが浮かんだ。
「よおし。ならば、幕府の腰抜け官僚どもに、極上の『恐怖』を味わわせてやろうぜ」
***
その数日後。
江戸の町は、未曾有のパニックに包まれていた。
「ご、号外だァーッ!! 大変だ!! 南蛮の化け物船が日本にやってくるぞォォッ!!」
「聞いたか!? 長崎からの早馬だ! 山のようにデカい船が何十隻も連なって、大砲を何百門も積んでこっちに向かってるってよ!」
「清国も東南アジアも、あいつらの武器の前に皆殺しにされたらしい! 日本も植民地にされちまうんだ!!」
お雪が統括する瓦版ネットワークを通じて、江戸中に凄まじい勢いでバラ撒かれた『フェイクニュース』。
「南蛮の連合大艦隊が、日本を侵略するために出港した」という、史実のペリー来航を100年以上先取りしたかのような絶望的な情報だった。
もちろん、真っ赤な嘘である。
当時のヨーロッパは「スペイン継承戦争」という泥沼の戦争の真っ最中であり、極東の島国に大艦隊を派遣するような余裕などあるはずがない。
だが、鎖国という温室の中で100年近く平和ボケしていた江戸の民衆や武士たちに、そんな世界の裏事情を検証する能力はない。
そして、そのパニックは当然、幕府の中枢である江戸城・本丸をも直撃していた。
「な、なんという事だ……! 異国の化け物船が、日本を火の海にするというのか……!?」
御休息の間。
将軍・徳川綱吉は、顔面を蒼白にしてガタガタと震えていた。
その周囲には、老中たちや勘定奉行が平伏しているが、彼らもまた「どうすればよいのか」と半泣きで狼狽えるばかりである。
「柳沢! 柳沢はおらぬか!!」
綱吉がすがるように叫ぶと、側用人である柳沢吉保が進み出た。
「は、ははっ! 上様、ご安心を。異国の船など、我が誇り高き武士たちの刀で打ち払ってご覧に入れまする!」
柳沢はそう勇ましく答えたが、彼の内心は極めて冷静、いや、完全な『虚無』であった。
(……茶番だ。これもすべて、あの化け物(吉良上野介)が描いた絵図面。私はただ、上様の恐怖を煽るための『無能な家臣』を演じさせられているだけだ)
柳沢の予想通り、老中の一人が悲鳴を上げた。
「馬鹿なことを! 瓦版によれば、夷狄の船は雷のような大筒(大砲)を積んでおり、近づくことすらできずに粉砕されるとのこと! 刀や槍でどうにかなる相手ではございませぬ!!」
「そ、それでは余たちは皆殺しにされると言うのか……っ!」
綱吉が絶望で顔を覆った、まさにその時。
「――上様。どうか、御心をお鎮めくださりませ」
静かだが、腹の底に響く重厚な声が部屋に響いた。
丸腰のまま、ゆっくりと御休息の間に足を踏み入れたのは、吉良上野介(若林幸隆)であった。
「お、上野介! そちか!!」
綱吉は、地獄に仏を見たかのような顔で身を乗り出した。先日の『犬騒動』以来、綱吉にとって若林は「日本で最も慈悲深く、頼りになる絶対の忠臣」であった。
若林は、深く、それはもう痛ましいほどに深く平伏した。
「上様がご案じなされるお気持ち、痛いほど分かりまする。夷狄の武力は凄まじく、正面から戦えば江戸は火の海となりましょう。……ですが、この老骨に、一つ『腹案』がございます」
「腹案じゃと!? 申せ、申してみよ!!」
若林は、伏せていた顔をゆっくりと上げ、悲壮な決意を滲ませた表情を作った。
「夷狄が真に求めているのは、日本の『金銀』と『交易』にございます。ならば、彼らを力で追い払うのではなく、逆に『一箇所』に呼び込み、毒気を抜くのです」
「呼び込む……?」
「はい。私の領地である『三河(吉良荘)』を、夷狄を迎え入れるための特別な港……『特別交易領』として公儀に認めていただきたいのです」
老中たちがざわめいた。それは実質的な「鎖国の解除」を意味するからだ。
「な、何を血迷うか吉良殿! 夷狄を領地に入れるなど……」
「黙りなされ!!」
若林が一喝すると、老中たちはビクッと肩を震わせた。
「正面からぶつかれば日本が滅ぶ! ならば、誰かが泥を被り、夷狄の懐に飛び込んで彼らの『大筒』や『船』の技術を奪い取り、逆に公儀の守りを固めるしかあるまい!!」
若林は、再び綱吉に向かって深く頭を下げた。
「上様。私が三河で夷狄をなだめすかし、時間を稼ぎます。その間に彼らの技術を盗み出し、この国を強国へと作り変えてみせましょう。……もし夷狄が牙を剥いた時は、我が吉良の領地と一族が『防波堤』となり、刺し違えてでも上様の御膝元をお守りいたします!!」
『孫子』の兵法。敵を欺くには、まず味方から。
己の領地を差し出し、国の盾になるという、自己犠牲に満ちた完璧な『忠臣の演説』。
「ああっ……上野介よ……!!」
将軍・綱吉の目から、再び大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「そちは……そちはどこまで余のために、この国のために身を削るのだ! 自らの領地を夷狄の前に晒し、盾になると申すか……っ!!」
(チョロい。やはりこの男は、感情でしか政治を判断できん)
若林は、畳に額をこすりつけながら、内心で舌を出して笑っていた。
「あい分かった!! 上野介よ、そちの忠義、余は生涯忘れぬ!」
綱吉は涙を拭い、高らかに宣言した。
「本日より、三河を公儀直轄に準ずる『特別交易領(経済特区)』と定める! 夷狄との交渉、商い、技術の導入……すべてを吉良家に一任する! 誰もこれに口出しすることは許さん!!」
「ははぁっ!! この命に代えましても、大任を果たしてみせまする!!」
こうして、江戸幕府が約100年にわたって守り抜いてきた絶対の国法「鎖国」は、一発の大砲も撃たれることなく、一人の老練な泥棒政治家の『自作自演のパニック』と『演技』によって、あっさりと合法的にぶち破られたのである。
***
数時間後。本所松坂町、吉良邸。
「ククッ……フハハハハハッ!!」
若林幸隆は、綱吉から賜った『特別交易領の御墨付き(認可状)』をヒラヒラとさせながら、茶室で腹を抱えて笑っていた。
「南蛮の大艦隊じゃと? アホくさ! 今頃ヨーロッパの連中は、スペインの王位継承を巡って泥沼の殺し合いをしとるわ! 日本に艦隊を送る余裕など、一隻たりともあるもんか!」
「では、父上。あの騒ぎはすべて……」
義周が、呆れたような、しかし底知れぬ畏怖を込めた声で尋ねる。
若林は、純銀の煙管に火をつけ、美味そうに紫煙を吐き出した。
「ただの『ハッタリ(プレゼン)』じゃ。だが、無知で臆病な権力者にとって、見えない恐怖ほど操りやすいものはない。これでワシらは、公儀の金を使わずに、堂々と世界中と商いができる『不逮捕特権』を手に入れたわけじゃ」
若林は、懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開けた。
盤面の針は、もはや日本の小さな時間軸ではなく、世界の歴史そのものを刻み始めている。
「さあ、義周。お雪。第一の標的を呼び出せ」
若林の瞳に、国会で数多の政敵を血祭りにあげてきた、与党幹事長としての冷酷な捕食者の光が宿った。
「長崎でふんぞり返っとる『オランダ東インド会社』の商館長を、三河に招待しろ。……奴らの足元を見て、骨の髄まで『知識』をしゃぶり尽くしてやるわい」
元禄15年。
歴史のタイムラインが大きく分岐する音がした。
日本が世界の覇権を握るための「超絶重商主義」の幕が、今、圧倒的な知略とともに切って落とされたのである。




