EP 9
『君主論』の帰結 ―― 柳沢吉保の絶望と、真の支配者の影
「……申し開きもございませぬ。すべては、この不徳の致すところにございます」
江戸城・本丸、御休息の間。
将軍・徳川綱吉の怒声が響き渡った後、柳沢吉保は一人、自らの執務室に戻り、まるで抜け殻のようにへたり込んでいた。
彼の前には、切腹の際に用いる白木の三方と、布に包まれた短刀が置かれている。
江戸中にばら撒かれた暴露瓦版により、柳沢の権威は完全に失墜した。
大名からの賄賂、公金の横領、愛妾への過剰な貢ぎ物。それらすべてが完璧な証拠(裏帳簿の写し)と共に白日の下に晒され、彼を信奉していた官僚や大名たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
そして先ほど、綱吉から「当分の間、登城を禁ずる」という事実上の罷免(謹慎)を言い渡されたのだ。
切腹の沙汰が下るのも、時間の問題であった。
「……吉良上野介。あの化け物め……」
柳沢は虚ろな目で宙を見つめた。
自分の手足となるべき隠密は全滅。財力は「吉良札」に握られ、世論は吉良を崇め、将軍の心すら吉良への「勘違いの慈悲」で奪われている。
幕府という巨大なシステムの中で、最高権力者であったはずの自分が、いつの間にか最も無力な「孤島」へと追いやられていた。
いや、違う。吉良が幕府というシステムそのものを『作り変えて』しまったのだ。
柳沢が震える手で短刀の布を解こうとした、その時である。
「……随分としけた顔じゃな。狸親父」
「なっ!?」
執務室の障子が音もなく開き、一人の男が悠然と足を踏み入れた。
供も連れず、護衛もつけず、丸腰で現れた初老の男――吉良上野介(若林幸隆)である。
「き、吉良……!! 貴様、なぜここに! 誰か、誰かおらぬか!!」
柳沢が叫ぶが、外からは何の応答もない。
吉良の配下である「お雪」の諜報網が、すでに柳沢邸の警備システムを完全に掌握し、人払いを済ませていたのだ。
若林は、柳沢の目の前――まさに切腹用の短刀が置かれた上座の正面に、どさりと腰を下ろした。
そして、懐から純銀の煙管を取り出し、雁首を灰吹に打ち付けた。
――カンッ!!
甲高い金属音が、柳沢の鼓膜を、いや、魂そのものを鋭く打ち据える。
「喚くな、柳沢。お前の声を聞くために来たわけじゃねえ。……ワシの『講義』を黙って聞け」
若林の口から、冷酷無比なドス黒い広島弁が放たれる。
それは、かつて大石内蔵助の心を完全にへし折った時と同じ、絶対的強者による「格付け」の宣言であった。
柳沢は、目の前の男から発せられる異様な覇気――将軍・綱吉すらも凌駕するような、底知れぬ巨大な「暗黒」の気配に呑まれ、声を発することすらできなくなっていた。
「柳沢よ。お前は自分が『幕府の頂点』にいると思っとったじゃろうが、ワシから見れば、お前はただの『綱吉の機嫌取りに必死な、真面目な雇われ店長』に過ぎんのじゃ」
「な、何を……」
若林は煙管から紫煙を細く吐き出し、柳沢をゴミでも見るような目で見下ろした。
「政治っちゅうのはな、『誰が一番偉いか』を競う陣取りゲームじゃねえ。『誰が一番、国の急所を握っとるか』の生存競争じゃ。……お前は上様(権力)の袖にぶら下がるだけで、国家の急所(カネと情報)から目を背けておった」
若林は、懐から一枚の「吉良札」と、一枚の「暴露瓦版」を取り出し、柳沢の目の前に並べて置いた。
「ワシは三河の塩とこの『吉良札』で、幕府の財政(カネの血管)を握った。さらに江戸中の『瓦版』を牛耳り、世論(神経)を掌握した。この二つを握った時点で、将軍の命令など、いくらでも捻じ曲げられるんじゃ」
柳沢は、目の前に突きつけられた二つの「紙切れ」を見て、絶望のあまり歯の根がガチガチと鳴り始めた。
武士の時代において、剣も持たず、軍隊も動かさず、ただ『経済』と『情報』だけで国家を完全に乗っ取ってしまったのだ。
目の前の怪物は、数百年先の未来の政治(近代資本主義)を、江戸時代に持ち込んだ「規格外のバケモノ」であった。
「……わかったであろう。お前がどんな罠を仕掛けようが、初めから勝負になどなっとらんのじゃ。お前はただ、ワシの張った蜘蛛の巣の上で、もがけばもがくほど雁字搦めになる『ピエロ』に過ぎんかったっちゅうことじゃ」
「ああ……あああっ……」
柳沢の口から、無惨な嗚咽が漏れた。
自身の誇りも、知力も、権力も。すべてが「完全に相手の手のひらの上であった」という絶対的な真理。
己の人生そのものを否定された柳沢は、畳に両手をつき、ポロポロと涙を流し始めた。
「……私の、完全な敗北だ。吉良、殿。どうか、私の首一つで……残された一族だけは、お助けを……」
幕府の最高権力者が、一介の老臣に対して命乞いをする。
それは、第1章で大石内蔵助が降伏した時と全く同じ、見事なまでの「心が完全に折れた瞬間」であった。
若林は、柳沢の屈辱に満ちた姿を見下ろしながら、懐中時計の蓋をカチリと開けた。
**『君主論』**の帰結。敵の完全なる無力化。
普通の政治家なら、ここで柳沢を死に追いやり、自らが表舞台(最高権力者)に立とうとするだろう。
だが、現代のドブ泥を泳ぎ切った『本当の怪物(若林幸隆)』は、そんな三流の結末は望まない。
「……誰がお前を殺すと言うた、狸親父」
若林の冷ややかな声に、柳沢はハッと顔を上げた。
「ワシはな、表舞台でふんぞり返って、連日連夜、下らん陳情や上様の機嫌取りに追われるような『面倒な仕事』はお断りなんじゃ。……そんな下働き(防波堤)は、今まで通りお前がやれ」
「な……っ!? なぜだ!? 私はあなたの敵だぞ! いつ寝首を掻くか……」
若林は、悪魔のように口角を吊り上げた。
「寝首を掻く? 嗤わせるな。お前はもう、ワシの許可なしには息もできん身体になっとるじゃろうが」
若林は、煙管の雁首で柳沢の鼻先を指した。
「ワシの一存で、江戸中の吉良札をストップさせれば、幕府の財政は一日で死ぬ。ワシの一声で瓦版を動かせば、お前の一族の裏の醜聞がすべて江戸中にバラ撒かれる。……お前がワシに逆らうことは、物理的に不可能じゃ」
柳沢は、己が置かれた「真の絶望」を理解した。
死ぬことすら許されない。生き恥をさらし、永遠に『吉良上野介という暗黒の支配者』の都合の良い手足(操り人形)として、幕府の表舞台に立ち続けなければならないのだ。
「ええか柳沢。お前は明日、上様の元へ行き、こう申し出ろ。『此度の不祥事、すべては私の不徳。深く反省し、今後は吉良上野介殿の御意見を第一とし、公儀の政務に邁進いたします』とな。……上様も、慈悲深きワシの『口添え』があれば、お前の罪を許すじゃろう」
柳沢は、全身の血が凍りつくような感覚の中で、ただひれ伏すしかなかった。
武士としてのプライドなど、とっくに消え失せていた。圧倒的な「暴力」の前に、完全な屈従を誓うしかなかった。
「……御意に、御意にございまする……! この柳沢吉保、死ぬまで吉良大殿様(若林)の忠実なる『犬』として、粉骨砕身、働かせていただきます……っ!!」
畳に額をこすりつけ、泣き崩れながら忠誠を誓う柳沢。
若林は、それを見下ろしながら、純銀の煙管から紫煙を高く吹き上げた。
「よう言った。……さあ、狸親父。ワシの『国造り(裏社会の支配)』の始まりじゃ。せいぜいこき使っちゃるけえ、覚悟しとけや」
元禄14年、冬。
この日、江戸幕府の最高権力者は、一人の怪物によって完全に「所有」された。
大石内蔵助の時と同じく、敵を殺さず『システム(社畜)』として組み込む。これこそが、若林幸隆の真の恐ろしさであり、現代の資本主義(政治)の最も残酷な一面であった。
歴史の教科書には決して載らない、真の「江戸の支配者」が誕生した瞬間である。




