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EP 8

情報戦再び ―― 瓦版ネットワークの包囲網(社会的抹殺のメガトン・スピン)

「……全滅、だと? 甲賀の精鋭が、一人残らず返り討ちに遭ったというのか!?」

深夜の江戸城、柳沢吉保の執務室。

報告に上がった隠密の生き残りの言葉に、幕府の最高権力者である柳沢は、これまで保ってきた冷徹な仮面を完全に引き剥がされ、狼狽えきっていた。

「はっ……! 吉良邸は、もはやただの屋敷ではございませぬ。未知の陣形と、死を全く恐れぬ狂信的な兵(旧赤穂浪士たち)によって守られた、鉄壁の要塞にございます。……我ら隠密の力では、到底突破できませぬ」

「ええい、下がれ! 役立たずどもめ!!」

柳沢は激昂し、文机の上のすずりを壁に投げつけた。

ガチャン、と墨が飛び散る。柳沢の顔は、屈辱と焦燥で土気色に染まっていた。

将軍・綱吉の「生類憐みの令」を利用した致死の罠は、吉良の狂気じみた演技によって完全に裏目に出た。

そして最後の頼みの綱であった「裏の武力」すらも、吉良が飼い慣らした赤穂の狂犬たちによってすり潰された。

(吉良上野介……あの老いぼれ、一体何者だ。公儀の法も、暗殺すらも通じない。このままでは、幕府の財政も権威も、すべて奴に裏から乗っ取られてしまう……!)

柳沢は、乱れた息を整えながら、ギラリと暗い瞳を光らせた。

法と武力が駄目なら、残された手札は一つしかない。**「大衆の目(世論)」**である。

「……吉良め。貴様がどれほど裏でカネを握ろうと、所詮はこの江戸の住人。百万の民草が『吉良は幕府を乗っ取ろうとする大逆人だ』と信じ込めば、上様とて貴様を庇いきれまい」

柳沢は、自身の腹心である用人を呼び出した。

「すぐに江戸中の瓦版屋の元締めを金で抱き込め! 『吉良上野介は、三河の塩と偽の札で公儀の財政を乱し、幕府転覆を企む国賊である』という噂を、明日中に江戸中にばら撒くのだ!」

「は、ははっ! ただちに!」

権力者による、国家規模のネガティブ・キャンペーンの命令。

柳沢は己の勝利を確信し、歪んだ笑みを浮かべた。いくら吉良が賢しかろうと、幕府の最高権力者が本気で仕掛ける「情報戦」を止められるはずがない、と。

だが、彼は知らなかった。

この江戸の「情報メディア」という名の巨大な怪物は、すでに一人の『感情を持たない少女』の手によって、完全に首輪をつけられているという事実を。

***

その日の未明。江戸市中、裏路地のうらぶれた長屋。

柳沢の用人は、多額の小判が入った千両箱を抱え、瓦版屋の元締めである弥助やすけの元を訪れていた。

「……というわけだ。この千両箱は手付金。明日中に、吉良の悪評を江戸中にばら撒け。公儀の命である、逆らえばお前たちの首が飛ぶぞ」

用人は威圧的に言い放ち、千両箱の蓋を開けた。

だが、弥助をはじめとする数人の瓦版屋たちは、その輝く小判を見ても、全く生気のない虚ろな目をしているだけだった。

「どうした? カネが足りんのか?」

用人が苛立ちげに声を荒げた、その時。

「……足りないのではなく、不要なのです」

部屋の隅、闇の中から、氷のように感情のない少女の声が響いた。

「なっ!? 誰だ!!」

用人が刀の柄に手をかけると、暗がりから一人の小柄な少女が音もなく姿を現した。

異常なほど白い肌と、一切の光を宿さない無機質な瞳。若林幸隆によって『最強の諜報機関』として育成された少女――お雪である。

お雪は、柳沢の用人をゴミでも見るような冷たい目で見据えた。

「江戸の『目』と『耳』と『口』は、すべて私のご主人様(若林)の所有物インフラです。……あなた方のような無能な官僚が、泥靴で踏み入っていい領域ではありません」

「小娘が、何を……! 弥助! この小娘をつまみ出せ! 公儀の命に逆らう気か!!」

用人が怒鳴りつけるが、弥助たちは動かない。

それどころか、弥助はガタガタと震えながら、お雪に向かって深く平伏した。

「お、お雪様……! わっしらは何も聞いておりやせん! 吉良の大殿様を裏切るような真似、絶対にいたしやせん……っ!!」

用人は愕然とした。

金でもなく、幕府の権威でもなく、目の前の小さな少女に対する『絶対的な恐怖』が、江戸中の瓦版屋を支配しているのだ。

「ご主人様からの『通達』をお伝えします」

お雪は、懐から数枚の分厚い書状を取り出し、用人の足元にパラリと落とした。

「柳沢吉保の『社会的なスキャンダル』……これより、一斉配信リリースを開始します」

用人がその書状を拾い上げ、中身を見た瞬間。

彼の顔色から血の気が完全に引き、悲鳴にも似た喘ぎ声が漏れた。

「こ、これは……!! なぜ、柳沢様のごく一部の側近しか知らないはずの、裏帳簿が……!? まさか、これも……これもすべて瓦版で流すというのか!?」

お雪の唇に、若林にそっくりな、酷薄で残忍な笑みが浮かんだ。

「……情報の非対称性。無知なる者は、システムに食われて死ぬのみです」

***

翌朝。

江戸の町は、まるで大地震でも起きたかのような、未曾有のパニックと熱狂に包まれていた。

「号外! 号外だよ!! 幕府の最高権力者、柳沢吉保様の真っ黒な裏の顔だ!!」

「ええっ!? 柳沢様が大名から莫大な賄賂を受け取ってただと!?」

「こっちの瓦版には、柳沢様が御用の金を横領して、愛妾めかけのために豪邸を建てたって証拠付きで書いてあるぞ!!」

江戸中の辻という辻で、数万枚にも及ぶ『暴露瓦版』が乱れ飛んでいた。

それらは単なる噂話レベルではない。誰から、いつ、いくらの賄賂を受け取ったか。どの商人と結託し、どれだけの公金を横領したか。

若林の指示を受けたお雪の諜報網が、柳沢の屋敷の天井裏や、側近たちの酒の席から執念深くかき集めた「絶対的な証拠エビデンス」に基づく、逃げ道の一切ない完全なスキャンダル爆弾であった。

「……完璧じゃな」

本所松坂町、吉良邸。

若林幸隆は、縁側で純銀の煙管きせるを燻らせながら、遠く江戸城の方角から聞こえてくるような民衆の騒めきに耳を傾けていた。

「フン。現代政治において、敵を潰すのに暗殺なんぞいらんのじゃ。メディア(世論)を牛耳り、相手の『スキャンダル』を最高のタイミングで爆発させる。……大衆という『正義の暴徒』が、標的を骨の髄までしゃぶり尽くしてくれるわい」

若林は、煙管の雁首をトントンと打ち鳴らした。

――カンッ!!

「柳沢よ。お前が将軍の威を借りて築き上げた権力など、所詮は『清潔な側近』という虚像イメージの上に成り立っとる砂上の楼閣じゃ。その土台をぶっ壊せば、お前の権威など一瞬で吹き飛ぶ」

若林の五つの哲学。**『孫子』の「戦わずして勝つ」と、『君主論』**の「冷酷な権力闘争」。

それが完全に融合した、現代政治家の真骨頂である。

***

同じ頃、江戸城本丸。

柳沢吉保は、自らの執務室で、次々と飛び込んでくる絶望的な報告に崩れ落ちていた。

「や、柳沢様……! 江戸中の大名たちが、柳沢様との面会を拒絶しております! 『賄賂の証拠を握られている者と関われば、自分まで巻き添えを食う』と……!」

「勘定方の役人たちも、『柳沢様からの指示書はすべて保留せよ』と動きを止めております!」

「さらには、上様(将軍)が、此度の瓦版の騒ぎを耳になされ、大変お怒りのご様子で……!! すぐに釈明に来いとのお達しが……っ!!」

「ああ……あああ……っ!!」

柳沢は、両手で髪を掻き毟りながら、喉の奥から野獣のような絶望の叫びを上げた。

誰も彼もが、蜘蛛の子を散らすように自分から離れていく。昨日まで彼に媚びへつらっていた大名も、官僚も、彼を「疫病神」のように扱い始めている。

武力で敗れたのではない。

たった一日、いや、たった数刻の間に撒き散らされた「紙切れ(情報)」によって、自分の政治生命、名誉、これまで築き上げてきたすべてが、跡形もなく消し飛んだのだ。

「吉良……! 吉良上野介ェェェェッ!!」

血を吐くような柳沢の怨嗟の叫びは、虚しく執務室の壁に響くのみであった。

武力を封じ、法を裏切り、最後にすがった情報戦ですら、圧倒的な「格の違い」を見せつけられ完全敗北。

江戸幕府の最高権力者・柳沢吉保は、今ここに、政治家としての「完全なる死」を迎えたのであった。

「……さて。お膳立てはすべて整ったのう」

吉良邸で懐中時計を見つめる若林の瞳には、一切の慈悲はなかった。

「トドメを刺しに行くぞ。……日本の『本当の支配者』が誰なのか、あの狸親父の脳髄に直接刻み込んでやるわい」

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