EP 7
狂信の剣 ―― 忠臣蔵の真なる完成(完全なる社畜たち)
元禄14年、極寒の深夜。
将軍・徳川綱吉からの「絶対的なお墨付き」を得た吉良邸は、もはや法的に不可侵の聖域となっていた。
だが、幕府の最高権力者である柳沢吉保は、決して諦めてはいなかった。
「法」で裁けず、「政治」で崩せないのなら、残る手段は一つ。法の外側の暴力――すなわち「暗殺」である。
柳沢が密かに放ったのは、将軍家直属の裏の武力、甲賀組の精鋭(忍び)数十名であった。彼らは音もなく吉良邸の高い塀を越え、闇に溶け込みながら中庭へと侵入した。
(……フン。迷路のような庭だと聞いていたが、所詮は素人の作った張りボテ。我ら隠密の身のこなしの敵ではないわ)
頭目である黒装束の男は、冷笑を浮かべた。
確かに庭は複雑に入り組んでいたが、彼らは塀の上を飛び移り、音を立てずに屋根を伝って、難なく吉良の寝所である奥座敷へと近づいていた。
目標は、吉良上野介の首ただ一つ。
頭目が奥座敷の障子に手を掛けようとした、まさにその時。
「――業務時間外の無断立ち入りは、不法侵入(コンプライアンス違反)であると心得よ」
「なっ!?」
頭上から降ってきた野太い声に、頭目が飛び退く。
いつの間にか、吉良邸の屋根の上、そして中庭の四方を、数十人の男たちが完全に包囲していた。
彼らは吉良家の正規の家臣(小林平八郎たち)ではない。
全員が、動きやすさを重視した濃紺の揃いの作務衣に身を包み、手には抜き身の刀を提げている。
その中心に立ち、静かに刀を青眼に構えている初老の男。その顔が月明かりに照らされた瞬間、隠密の頭目は息を呑んだ。
「お前は……! 大石内蔵助!? なぜ、赤穂の狂犬が吉良邸にいる!?」
そう。彼らこそ、かつて吉良上野介の命を狙い、武士の意地と大義名分をすべて若林の「算盤」によってへし折られ、三河の塩田で労働者として雇い入れられた旧・赤穂浪士四十七士であった。
大石内蔵助は、かつての疲労困憊した浪人の顔ではなかった。
三河の塩田での規則正しい労働、十分な食事、そして何より「労働の成果が確実にカネとなり、領民を豊かにする」という絶対的な充実感。それは大石の肉体を若返らせ、その瞳に、かつての主君・浅野内匠頭へ向けていたものとは比較にならないほどの『狂信的な光』を宿させていた。
「狂犬とは失礼な。我らは現在、吉良グループ塩業部門・特別保安課に所属する『正規雇用(正社員)』である」
大石の口から飛び出したのは、若林が彼らを洗脳する過程で刷り込んだ、現代資本主義の異様な言葉(概念)だった。
「吉良の……正規雇用だと? 狂ったか、大石! お前たちにとって吉良は、主君を死に追いやった不倶戴天の仇であろうが!!」
隠密の頭目が叫ぶ。
その言葉に、大石をはじめとする四十六人の男たちの顔が、一斉にヒクリと歪んだ。
怒りではない。それは、過去の己の愚かさを恥じるような、そして「無知な者」を憐れむような、不気味な薄笑いであった。
「……浅野の殿は、ご自身の『感情』を制御できず、我らを路頭に迷わせた。だが、我らが大殿(吉良上野介)はどうだ?」
大石は、一歩前に出た。その体から立ち上る剣気は、赤穂藩家老時代とは比べ物にならないほど鋭く、重い。
「大殿は、情けや面子で国は動かぬと教えてくださった。法と銭(算盤)こそが、民草を食わせ、国を豊かにする唯一の道であると! 我らが三河の塩田で流す汗の一滴一滴が、この国の経済を回し、江戸を潤しているのだ!!」
大石の瞳孔が開き、顔に狂気的な歓喜が浮かんだ。
「大殿(社長)こそが、この国の『経済(命)』そのもの! 我らは今、大殿の創り出す『経世済民』という真の忠義の歯車となったのだ! ……貴様らのような、旧態依然の権力にすがる鼠どもに、我らの『サプライチェーン』を絶たせてたまるかァッ!!」
「「「大殿の事業を阻む者は、一匹残らず駆除せよォォッ!!」」」
四十六人の社畜たちが、一斉に隠密たちに向かって襲いかかった。
「ちぃっ! 構わん、殺せ!!」
隠密の頭目も応戦を指示する。彼らは将軍家直属のプロの暗殺者だ。いくら剣の腕が立とうが、元は田舎侍の集団など敵ではないはずだった。
だが、交刃した瞬間、隠密たちは己の目を疑った。
「ぐあっ!?」
「な、なんだこいつら……! 命が、惜しくないのか!?」
赤穂浪士たちの動きは、異常であった。
武士の誇りである一騎打ちの名乗りなど一切上げず、三人がかりで一人の隠密を無慈悲に囲んで叩き斬る。一人が手傷を負っても全く怯まず、「労災が下りるぞ! 構わず行けェ!」と叫びながら、狂ったように刀を振り回す。
彼らは「死を恐れない」のではない。
若林によって『圧倒的な福利厚生(恩賞と遺族年金)』と『信賞必罰のシステム』を魂の底まで刻み込まれたことで、完全に恐怖のタガが外れた「最強の軍隊」と化していたのだ。
「甘いッ!!」
大石内蔵助の豪剣が、空気を切り裂く。
隠密の頭目がクナイで防ごうとしたが、大石の一撃はそれを易々と叩き割り、頭目の肩口から袈裟懸けに深く斬り込んだ。
「ごはぁっ……! ば、ばかな……ただの、浪人ふぜいが……」
血を吐きながら倒れ伏す頭目。
大石は、冷ややかにそれを見下ろし、刀の血糊を振って落とした。
「浪人ではないと言うたはずだ。……大殿(社長)の描く『利益』の前では、貴様らの暴力など、些末な『不良債権』に過ぎん」
わずか数分。
柳沢が絶対の自信を持って放った精鋭の隠密部隊は、資本主義の神(若林幸隆)に洗脳された狂信の剣によって、文字通り一匹残らず「駆除」された。
***
「……終わったようじゃな」
奥座敷の縁側。
すべてが終わった中庭に、純銀の煙管を咥えた若林幸隆(吉良上野介)が、小林平八郎を従えてゆっくりと姿を現した。
庭には、隠密たちの死体の山と、息一つ乱さずに整列する大石たち四十七人の姿があった。
「大殿!! 業務報告いたします!!」
大石が、若林の足元に深く平伏した。
「我が吉良グループの事業を阻害せんとする不逞の輩、すべて特別保安課によって『損金処理』いたしました!!」
若林は、煙管の雁首を灰吹に打ち付けた。
――カンッ!!
「ようやった、大石。お前たちをわざわざ三河から『出張』させた甲斐があったというものじゃ。……お前たちの忠義(働き)、しかと見届けた」
「ははぁっ!! 勿体無きお言葉、我ら社員一同、感涙の極みにございます!!」
大石をはじめ、四十六人の元・浪士たちが、感激のあまり大声で泣き始めた。
かつてあれほど憎み合った仇敵に褒められ、涙を流して喜ぶ姿。それは側で見ている小林平八郎ですら、背筋に冷たい粟が立つほどの『異様で完璧な支配』の光景だった。
若林は、懐中時計を取り出し、時間を確認した。
「ええか、大石。お前たちには明日からまた三河に戻り、塩田の現場監督に復帰してもらう。じゃが、此度の働きに対する『特別ボーナス』は、惜しみなく支給しちゃる」
「お、おおっ……! 大殿万歳!! 吉良家万歳!!」
狂信的な歓呼の声が、夜の吉良邸に響き渡る。
若林は、紫煙を夜空に吐き出しながら、冷酷な笑みを深めた。
柳沢吉保よ。お前が放った最強の矛は、ワシが「カネ」と「やりがい」で育て上げた最強の盾(ブラック社員)によって完全に粉砕されたぞ。
法(生類憐みの令)も通じない。暗殺(隠密)も通じない。
これで柳沢に残された手札は、すべて消滅した。
「さあ、狸親父。チェックメイト(王手)の時間が近づいてきたのう」
若林幸隆の呟きは、絶望の淵に立たされるであろう柳沢吉保への、冷酷な死の宣告であった。
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