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EP 6

盤上の逆転劇 ―― 狂気の慈悲と、絶対権力者の号泣(究極の勘違い)

雪の舞う江戸城本丸、御休息の間の庭園。

静寂と威厳に満ちたその空間は今、異様な熱と狂気に包まれていた。

「ああっ……! なんという、痛ましい……!! 誰か、誰か布を! 早く!!」

泥と血にまみれた薄汚い野犬を、己の最高級の絹の羽織で固く抱きしめ、天を仰いで号泣する老人。吉良上野介(若林幸隆)である。

「き、吉良殿……!? いったい何を血迷って……!」

罠を仕掛けた柳沢吉保は、想定外すぎる吉良の凶行(?)に、思わず素の声を漏らした。

吉良が犬を足で払いのければ「虐待」で即切腹。

吉良が犬を無視して狼狽えれば「不敬」で失脚。

それが柳沢の描いた完璧なシナリオだった。まさか、自ら進んで血みどろの野犬を抱きしめ、自分の着物を汚してまで泣き叫ぶとは、完全に計算外である。

「柳沢殿! 血迷うとは何事ですか!!」

若林は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、柳沢をキッと睨みつけた。

「見なされ、このお犬様の後ろ脚を! 刃物で切り裂かれたような深い傷……! このままでは血を失い、命を落としてしまう! 私は……私は、この尊き命が消えゆくのを、黙って見過ごすことなどできませぬ!!」

若林はそう叫びながら、懐から手ぬぐいを取り出し、犬の傷口の少し上をきつく縛り上げた。

(フン。止血の基本中の基本『動脈圧迫』じゃ。防衛大臣時代に自衛隊の衛生教練で叩き込まれた知識が、こんな所で役に立つとはのう)

若林の脳内では、ドス黒い広島弁が冷酷に状況を分析していた。

犬の傷は致命傷ではない。柳沢の部下が、犬を庭へ走らせるためにわざと浅く付けた傷だ。だが、それを「今にも死にそうな重傷」として過剰に演出し、柳沢の「悪逆非道さ」を浮き彫りにする。

「お犬様! どうか気を確かに! 今、私が血を止めますゆえ……っ! 上様(将軍)の御膝元で、このような残酷な真似をする外道が潜んでおろうとは……っ!」

若林の言葉に、柳沢の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。

(ば、馬鹿な……。これではまるで、私が上様の御前で殺生を企てたかのような……!)

柳沢が慌てて事態を収拾しようと口を開きかけた、その時である。

「――そこまでじゃ、柳沢」

御休息の間の奥、将軍の姿を隠していた御簾みすが、勢いよく巻き上げられた。

そこに立っていたのは、顔を真っ赤に紅潮させ、大粒の涙をボロボロとこぼしている初老の男。

江戸幕府第5代将軍、徳川綱吉その人であった。

「う、上様!!」

柳沢をはじめ、周囲の坊主や侍たちが一斉に平伏する。

若林もまた、犬を抱きしめたままハッと顔を上げ、慌てて土下座しようとした。

「ああっ、う、上様……! このような血の穢れを御前に持ち込み、申し訳ございませぬ! どうか、どうか私一人の腹に免じて、このお犬様はお救いくだされ……!」

「よい! そのままでよい、上野介!!」

綱吉は、畳を踏み鳴らすようにして縁側まで進み出ると、雪の降る庭に裸足で降り立ち、若林の肩をガシッと掴んだ。

その瞳からは、堰を切ったように涙が溢れ出している。

「上野介よ……。見事じゃ。見事な慈悲の心じゃ……っ!!」

(……カンッ!)

若林の脳内で、純銀の煙管が打ち鳴らされる音がした。

『生類憐みの令』。現代人から見れば狂気の悪法だが、綱吉本人は大真面目であった。戦国の殺伐とした遺風を払拭し、国に「仁愛」と「道徳」を根付かせるための、彼なりの壮大な(そしてズレた)理想だったのだ。

だが、幕閣も、柳沢でさえも、綱吉の法令を「恐れ」から従っているだけで、誰一人として綱吉の『理想こころ』を理解していなかった。綱吉は、絶対権力者でありながら、絶対的な孤独の中にいた。

「世の者どもは、皆、余の定めた法を恐れ、顔色を窺ってばかりおる! 犬を庇うふりをしながら、腹の底では疎んじておるのだ! ……だが、そちは違う!!」

綱吉は、自らの着物の袖で、犬の顔についた泥を拭いながらむせび泣いた。

「我が身の汚れも厭わず、処罰されることも恐れず、ただ純粋に一つの命を救おうとした! これぞ、余が求めていた『真の仁愛』! 究極の忠義ではないか!!」

(チョロい。チョロすぎるわい、上様)

泥にまみれて号泣する若林は、内心で極悪非道な笑みを浮かべていた。

政治家という生き物が、権力よりもカネよりも最も渇望するもの。それは「自分の理解者シンパ」である。

孤独な理想主義者である綱吉の「承認欲求」を、完璧な演技で満たしてやる。それだけで、将軍という最強の駒は、自ら進んで若林の『盾』となるのだ。

「上様……っ! 勿体無きお言葉……! 私はただ、上様が教えてくださった『命の尊さ』に従ったまでにございます……!」

若林もまた、綱吉の手を握り返し、声を上げて泣き崩れた。

将軍と老臣が、雪の庭で汚れた野犬を抱きしめながら共に涙を流す。周囲の者たちも、その異様で感動的な光景に呑まれ、もらい泣きを始めていた。

ただ一人、柳沢吉保を除いて。

(……やられた。完全に、私の負けだ)

柳沢は、畳に額をこすりつけながら、ギリッと奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばっていた。

罠に嵌めるどころではない。

自分が放った「犬」という凶器が、そのまま吉良上野介という男を「将軍の最高の理解者」へと押し上げるための、極上の『踏み台』にされてしまったのだ。

「柳沢よ!!」

綱吉が、涙を拭いながら柳沢を鋭く睨みつけた。

「は、ははっ!!」

「この犬を手厚く保護し、城の奥で飼う手筈を整えよ! それから、この犬を傷つけた不届き者を必ずや探し出し、極刑に処せ!!」

「……っ! ぎょ、御意にございます……!!」

柳沢は、自身の部下を自らの手で処刑するよう命じられたのだ。もはや反論など許されない。

綱吉は再び若林に向き直り、深く頷いた。

「上野介。そちの忠心と慈悲、余は生涯忘れぬ。此度の赤穂の件、色々と言う者もおるようだが、そちのような人格者が狂人の刃傷に耐えたこと、改めて不憫に思うぞ」

「もったいなきお言葉にございまする……!」

「何か望みはないか? そちの忠義に、余は報いてやりたい」

若林は、これぞ好機とばかりに、涙を拭いながら伏し目がちに答えた。

「望みなど……この老体には過ぎたることにございます。ただ、一つだけ……。我が領地の三河で作らせております『塩』と、大坂の商人との商いが、昨今の治安の悪化により滞るやもしれぬと、領民たちが不安がっております。もし、公儀より『吉良家の商いを阻害するべからず』という御朱印(お墨付き)を頂けましたならば……」

「なんと無欲な! 己の栄達ではなく、領民と商いを案じるとは! よい、即座に手配させよう!」

将軍・綱吉による、吉良家の経済活動への「完全なる不逮捕特権フリーパス」の付与である。

これにより、「吉良札」は幕府の保証を得たも同然となり、柳沢の手出しは未来永劫、不可能となった。

(勝負あったな、柳沢の狸親父)

若林は、畳に顔を擦り付けながら、柳沢の方をチラリと見た。

柳沢の顔は、屈辱と敗北感で死人のように蒼白になっていた。

第15代(最後)の将軍ではなく、絶頂期の第5代将軍を『演技』一つで籠絡する。

それは、現代の怪物・若林幸隆による、江戸幕府という国家システムへの「不可逆のウイルス感染」が完了した瞬間であった。

読んでいただきありがとうございます。

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