EP 5
『孫子』 ―― 将軍・綱吉の罠、生類憐みの致死領域
元禄14年、冬。
江戸城・本丸。それは日本という国家の心臓部であり、絶対的な権力が鎮座する不可侵の領域である。
若林幸隆(吉良上野介)は、案内役の坊主の後につき、果てしなく続くような畳の廊下を、音もなく歩いていた。
当然ながら丸腰である。供を連れることも許されず、持ち込めたのは懐に忍ばせた純銀の煙管と懐中時計のみ。
(……フン。国会議事堂の赤絨毯よりは、幾分か静かで趣があるのう)
若林の内心は、極めて冷静だった。
今日、彼を呼び出したのは他でもない。第5代将軍・徳川綱吉。そしてその腹心であり、幕府の事実上の最高権力者である側用人・柳沢吉保である。
呼び出しの理由は「吉良邸での刃傷沙汰の顛末について、上様が直接労いの言葉をかけたい」という表向きのものだ。
だが、若林も、そして彼を監視する情報機関「お雪」も、それが真っ赤な嘘であることは百も承知だった。
(柳沢の狸親父め。ワシが三河の塩と『吉良札』で江戸の経済を裏から握り始めたことに気づき、上様の権威を使ってワシを直接『処理』する気じゃな)
やがて、若林は本丸の奥深く、見事な枯山水の庭園に面した「御休息の間」へと通された。
部屋の上座には、御簾が下ろされている。その向こうに、絶対権力者である将軍・綱吉が座しているのだ。
そして御簾のすぐ手前には、冷ややかな美貌を持つ初老の男――柳沢吉保が、獲物を待つ蛇のような笑みを浮かべて控えていた。
「吉良上野介殿。大儀であった」
柳沢の声が、静まり返った部屋に響く。
「ははっ。上様におかれましては、此度の刃傷沙汰の折、即座に大英断を下され、この老いぼれの命をお救いいただき……ただただ、御恩に報いる言葉も見つかりませぬ」
若林は、完璧な「忠義と感謝に咽び泣く老臣」の演技で、深々と平伏した。
「うむ。上様も、吉良殿の忠節を深く嘉しておられる」
柳沢は鷹揚に頷きながらも、その瞳には一切の温度がなかった。
「ところで、吉良殿。近頃、江戸市中では妙な噂が流れておる。吉良家が独自の『札』を発行し、大坂の商屋どもを牛耳っていると。……これは、公儀の定めた貨幣の法を蔑ろにする行いではないかな?」
いきなりの、核心を突く牽制。
凡庸な武士であれば、ここで震え上がり「滅相もない!」と狼狽するだろう。
だが、若林は現代の与党幹事長として、数多の国会答弁(スキャンダル追及)をのらりくらりと躱してきた怪物である。
「おお、その事でお耳を汚しておりましたか。……あれは、我が領地の塩をやり取りするための、ただの『覚え書き(引換券)』に過ぎませぬ。大坂の商人どもが勝手に重宝しているだけで、公儀の御威光を犯すなど、恐れ多いこと……」
完璧な答弁。法的には一切の瑕疵がない。
柳沢の眉が微かに動いた。
(……やはり、ただの老いぼれではない。この男の口からボロを出すのは不可能か)
柳沢は、若林の恐るべき政治力と胆力を確信した。
だが、柳沢とて幕府の最高権力者だ。言葉の罠が通じないなら、『物理的な罠』に嵌めるまで。
「……吉良殿の忠心、疑う余地もなし。さて、上様は吉良殿に、この庭園の雪景色をご覧に入れたいと仰せだ。縁側へ参られよ」
柳沢の案内に従い、若林は縁側へと進み出た。
冬の澄んだ空気の中、見事に手入れされた松と、白い砂が波を描く美しい枯山水の庭が広がっている。
「見事な庭にございます……」
若林がそう呟いた、まさにその瞬間だった。
キャインッ!!
静寂を切り裂くような、犬の悲鳴。
庭の奥、生垣の陰から、一匹の『犬』が転がり出てきた。
それは、御膝元の江戸城には到底似つかわしくない、泥と血にまみれた薄汚い野犬だった。片足を引きずり、毛並みは汚れ、傷口からは生々しい血が滴っている。
「お、おい! なぜあのような穢らわしい獣が本丸に!?」
周囲に控えていた坊主や護衛の侍たちが、わざとらしく騒ぎ立てる。
(……なるほど、そういうことか)
若林の脳内で、瞬時にすべての「盤面」が組み上がった。
『孫子』の兵法。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」。
徳川綱吉が発布した、日本史上最悪の法律『生類憐みの令』。
特に「犬」を傷つけた者、虐待した者は、武士であろうと町民であろうと、容赦無く切腹、あるいは死罪・遠島に処されるという、狂気的な絶対法である。歴史上、蚊を叩き潰しただけで処罰された者すらいるほどだ。
目の前に現れた、血を流し、薄汚れた犬。
これは偶然ではない。柳沢が意図的に用意し、若林の目の前に放った「致死のトラップ」だ。
血と泥にまみれた気味の悪い犬が足元にすり寄ってくれば、普通の人間なら思わず「汚い」と顔を顰め、足で払いのけたり、後ずさりしてしまうだろう。
もし若林が、ほんの少しでも犬を「邪険」に扱えば。
『上様の御前で、お犬様を虐待するとは何事か!!』
柳沢はそう叫び、生類憐みの令違反として、若林を即座に捕縛し、切腹を命じる手筈なのだ。
言葉の罠が通じない相手を、逆らうことの許されない絶対法を使って強制的に社会抹殺する。権力者のみが使える、最も理不尽で凶悪な一手。
「おお……吉良殿。あそこにお犬様が。お怪我をされているようですが、いかがなされますかな?」
柳沢吉保が、口元に冷酷な笑みを浮かべて問いかけた。
御簾の向こうでは、将軍・綱吉が、若林の一挙手一投足を息を殺して見つめている気配がある。
(――柳沢の狸親父。ワシが犬を避ければ「虐待」で切腹。オドオドと狼狽えれば「将軍の御前での不作法」として失脚。完璧な『詰み(チェックメイト)』のつもりじゃな)
普通の武士なら、ここで完全に思考停止し、絶望するだろう。
だが。
若林幸隆の魂は、この絶対的な死地において、極上の「ドーパミン」を分泌させていた。
懐の中で、純銀の煙管をギュッと握りしめる。
脳内で、あの甲高い音が鳴り響いた。
――カンッ!!
(おどりゃあ、舐めるなよ。ワシは現代日本のドブ泥(政界)を泳ぎ切ってきた与党幹事長じゃ。テメェらのような温室育ちの官僚が作った『法』など……)
若林は、ドス黒い広島弁の思考を頭の奥底に封じ込めると。
一切の躊躇なく、雪の降る庭へと裸足のまま降り立った。
「ああっ……! なんという、痛ましい……!!」
若林の声が、悲痛な叫びとなって江戸城の庭園に響き渡った。
「き、吉良殿……!?」
予想外の行動に、罠を仕掛けた柳沢の顔から一瞬、余裕が消えた。
若林は、血と泥にまみれ、悪臭を放つ野犬の前に膝をつくと、一切の躊躇なく、自分が着ていた最高級の絹の羽織を脱ぎ捨てた。
そして、その白い羽織で、犬の血と泥にまみれた体を、まるで自分の孫を抱きしめるかのように、しっかりと、そして優しく抱き寄せたのだ。
「お労しや……! どこの馬鹿者が、このような残酷な仕打ちを……!!」
若林の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、犬の汚れた毛並みを濡らしていく。
それは、計算し尽くされた「完璧な狂気の演技」であった。
御簾の向こうで、何かが動く気配がした。
罠を仕掛けた柳沢吉保。
絶対権力者である将軍・綱吉。
そして、血まみれの犬を抱きしめ、天を仰いで号泣する吉良上野介。
江戸城本丸を舞台にした、国家を揺るがす「勘違い無双」の巨大な歯車が、今、狂ったように回り始めた――。




