EP 4
『学問のすゝめ』 ―― 江戸を呑み込む「吉良札(信用貨幣)」の魔法
「――紙切れ一枚で、小判の代わりになるじゃと? 馬鹿を言ってもらっちゃ困るぜ、吉良の若君」
江戸市中の料亭。
酒席の上座に座るのは、大坂から江戸へ進出してきた日本屈指の豪商・天王寺屋の番頭である。
その前に端座しているのは、吉良家の次期当主にして、若林の冷酷なる官僚教育により「システム」の怪物と化した青年――吉良義周であった。
義周は、番頭の嘲笑にも眉一つ動かさず、懐から一枚の和紙を取り出し、スッと膳の横に置いた。
そこには、吉良家の家紋と、複雑な透かし模様、そして『金百両に引き換えるべし』という筆文字が記されている。
「番頭殿。これは単なる紙切れではありません。我ら吉良家が発行する独自の信用手形……『吉良札』にございます」
義周は、感情の一切こもらない、しかし奇妙な説得力を持つ声で淡々と説明を始めた。
「現在、商いの主流は重い小判や銀の現物取引。大坂と江戸を船で行き来する際、嵐による沈没や盗賊に狙われるリスクは莫大です。しかし、この吉良札を使えば、現物を運ぶ必要はなくなります」
「それは為替と同じ理屈じゃろうが。為替は、同じ仲間の商屋同士で『信用』があるから成り立つんじゃ。一介の武家の、しかも老いぼれた隠居が発行した紙切れなんぞ、誰が信用するかい」
番頭が鼻で笑った瞬間。
義周の背後に控えていた武闘派の側近・小林平八郎が、純銀の煙管の雁首を灰吹に打ち付けた。
――カンッ!!
(父上(若林)の真似事だが、やはりこの音は相手の空気を圧するのに効果的だ)
義周は内心で冷たく分析しながら、番頭を真っ直ぐに見据えた。
「その『信用』の担保が、我ら吉良家の誇る『三河の塩』にございます」
「塩……じゃと?」
「吉良荘の塩は、新技術により生産量・品質ともに日本一。しかも、その専売権は我が吉良家が完全に握っております」
義周は、扇子を開き、机の上を軽く叩いた。
「この『吉良札』は、金(小判)だけでなく、いかなる時も『同価値の吉良の塩』と即座に引き換えることを保証しております。塩は人間が生きていく上で必ず必要なもの。腐らず、必ず売れ、価値が暴落しない。……つまりこの紙切れは、幕府の小判よりも確実な『絶対の価値』を帯びているのです」
番頭の顔から、嘲りの笑みがスッと消えた。
彼ら商人は、武士の身分など恐れていない。だが「絶対的な利益と信用」には平伏する生き物だ。
「さ、さらにじゃ……もしこの札を偽造する不届き者が出たらどうする?」
「ご安心を。この札には、最新の蘭学知識を用いた『透かし』と、特殊なインクが使われております。そして何より……」
義周の瞳に、冷酷な光が宿った。
「偽造を企てた者は、吉良家の全財力と、我らとズブズブに結びついた幕府の勘定奉行の権限をもって、一族郎党、地の果てまで追い詰め、社会的に完全抹殺いたします。……法と恐怖の抑止力です」
番頭は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
目の前にいる青年は、かつての気弱な吉良の跡取りではない。冷徹な計算と、圧倒的な実利を提示してくる『怪物の代行者』だ。
「番頭殿。この吉良札の流通を、天王寺屋に独占でお任せしたい。これにより、天王寺屋は現物輸送のリスクをゼロにし、莫大な為替手数料(利益)を独り占めできる。……乗りますか? それとも、ライバルの平野屋にこの話を持っていきましょうか?」
義周の完璧な交渉術(脅迫)の前に、番頭は深く、深く平伏した。
「……へへぇっ! 乗らせていただきやす! ありがたき幸せに存じます!!」
若林幸隆の五つの哲学の一つ、『学問のすゝめ』(実学と経済の支配)。
それは単に「良い塩を作って儲ける」という次元を遥かに超え、「貨幣経済のシステムそのものを、国家(幕府)から奪い取る」という、現代資本主義の真の恐ろしさであった。
***
数日後。本所松坂町、吉良邸。
「……見事じゃ、義周。大坂の商屋どもが、吉良札を奪い合うように使い始めおったわ」
若林は、縁側で「吉良札」の束をパラパラと弾きながら、ドス黒い笑みを浮かべていた。
「人間っちゅうのは不思議なもんじゃ。最初はただの紙切れだと疑っていても、それが『カネになる』と分かった瞬間、誰もが狂ったようにそれを信奉し始める。信用創造の魔法じゃな」
「すべて、父上の御教えの通りにございます」
義周が、感情の欠落した優秀な官僚の顔で一礼する。
「殿。この『吉良札』が江戸に出回れば、どうなるのでございますか?」
傍らに控える平八郎が、恐る恐る尋ねた。
若林は煙管に火をつけ、紫煙を吐き出した。
「簡単なことじゃ、平八郎。幕府が発行する小判よりも、ワシらの吉良札の方が『便利で信用できる』となれば、江戸中の経済(カネの流れ)は、幕府ではなくワシら吉良家を中心にして回り始めるんじゃ」
若林の目は、遠く江戸城本丸を見据えていた。
「幕府がいくら法律で威張ろうが、カネの蛇口をワシらが握れば、奴らはワシらの顔色を窺って政治をするしかなくなる。一滴の血も流さず、武力も使わず、ただ『信用』をハックして、国家を裏から乗っ取る。……これが、現代の泥棒政治家の国盗りじゃ」
その時。
部屋の影から、無機質な瞳を持つ諜報少女・お雪が音もなく姿を現した。
「……ご主人様(若林)。報告」
「なんじゃ、お雪。柳沢の放った隠密が、尻尾でも出したか?」
お雪は、感情のない声で淡々と恐ろしい事実を告げた。
「柳沢吉保は、吉良札の流通と、吉良家の莫大な資金力を危険視し、ついに直接動きました。……明日の昼下がり、将軍・徳川綱吉が、ご主人様を江戸城・本丸に呼び出しています」
「ほう?」
若林の眉がピクリと動いた。平八郎と義周の顔色が変わる。
「上様(将軍)が、直々に……!? 殿、これは罠にございます! 柳沢め、吉良家の力を恐れ、上様を唆して殿を切腹させる口実を作る気では!」
平八郎が慌てて立ち上がるが、若林は煙管の雁首を灰吹に打ち付け、静まらせた。
――カンッ!!
「騒ぐな、平八郎。柳沢の狸親父も、いよいよ焦って最終手段(将軍の権威)を出してきたか。……上等じゃ」
若林は、懐中時計を取り出し、カチカチと動く針を見つめた。
将軍・徳川綱吉。絶対的な権力者でありながら、「生類憐みの令」という稀代の悪法(極端な理想主義)を敷き、逆らう者を容赦無く粛清する予測不能の怪物。
「柳沢よ。お前は将軍の虎の威を借りて、ワシを罠にはめるつもりじゃろうが……相手が『狂った理想主義者(綱吉)』なら、ワシにもやりようはいくらでもある」
若林の瞳に、国会答弁や密室の交渉で数多の政敵を血祭りにあげてきた、与党幹事長としての『極悪非道な愉悦』の光が宿った。
「ええじゃろう。江戸幕府の最高権力者どもの懐(ド真ん中)に飛び込んで、ワシの『演技』で、奴らのシステムを根底から掻き回してやるわい」
元禄14年、冬。
若林幸隆は、丸腰のまま、最大のデスゲームが仕掛けられた江戸城・本丸へと歩みを進める。
それは、幕府乗っ取りの最終章の幕開けであった。
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