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EP 3

『君主論』 ―― 幕府の最高権力者・柳沢吉保の疑念(知恵者同士の見えない激突)

元禄14年、冬の入り口。

江戸城・本丸の奥深く。将軍の私的空間である「御座の間」に続く控え室は、息の詰まるような静寂と緊張に包まれていた。

その部屋の上座で、微動だにせず書類に目を通している初老の男。

端正な顔立ちには一切の感情が浮かんでおらず、冷ややかな空気を纏っている。

男の名は、柳沢やなぎさわ 吉保よしやす

第5代将軍・徳川綱吉の寵愛を一身に受け、将軍の言葉を幕閣に伝える「側用人そばようにん」として、老中をも凌ぐ江戸幕府の事実上の最高権力者である。

「……荻原殿。此度の勘定方の報告書、目を通させてもらった」

柳沢は、視線を書類から上げることなく、静かな声で口を開いた。

彼の前に平伏しているのは、幕府の財政を握る勘定奉行・荻原重秀おぎわら しげひでである。

「はっ。いかがでございましたでしょうか」

荻原が脂汗を滲ませながら答える。辣腕の官僚である彼でさえ、柳沢の底知れぬ眼光の前では蛇に睨まれた蛙のようになる。

「近頃、江戸の市中で奇妙な噂を耳にする。……『吉良上野介が、三河の塩の商いで莫大な富を築き、大坂の豪商どもを手玉に取っている』とな」

ビクッ、と荻原の肩が跳ねた。

「さらにだ。あの赤穂の刃傷沙汰の折、吉良邸は一時、鉄火場のような物々しい警戒態勢を敷いていたと聞く。浪人どもの襲撃に備えてのことだろうが、単なる高家の老人に、あれほど見事な『要塞』と『私兵』を組織する力があったのか……甚だ疑問だ」

柳沢吉保の政治家としての直感が、警鐘を鳴らしていた。

刃傷事件以降、江戸の世論は不自然なほど「吉良様マンセー」一色に染まっている。大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士たちは、いつの間にか江戸から姿を消し、三河の塩田で吉良の下働きをしているという信じがたい報告まで上がってきているのだ。

「荻原殿。そなた、勘定奉行として吉良の塩の専売に関わっておるな? ……あの老人、何か裏で妙な真似を企ててはおらぬか?」

柳沢の目が、ゆっくりと荻原を捉えた。

その視線は「もし隠し立てすれば、お前の首が飛ぶぞ」という無言の脅迫であった。

(や、やばい……っ!)

荻原の背中を、冷たい汗が滝のように流れ落ちた。

本来であれば、ここで「吉良は不当な利益を得ております」と告発すべき場面だ。

だが、荻原の喉は完全に凍りついていた。

なぜなら、荻原重秀という男は、すでに若林幸隆(吉良上野介)の放った莫大な『賄賂』と、吉良がもたらす革新的な『塩の利権』の甘い汁に、骨の髄までズブズブに漬かりきった「完全な共犯者」となっていたからだ。

(ここで柳沢様に本当のことを言えば、吉良殿から私の不正の証拠を暴露され、一族郎党切腹だ! しかも、今の幕府の財政は、吉良家の塩の売り上げ(税収)にかなり依存してしまっている……吉良殿を潰せば、勘定奉行である私の責任問題にもなる!)

荻原の脳内で、若林の冷酷な広島弁が再生される。

『ええか荻原殿。ワシとアンタは一蓮托生じゃ。ワシが沈めば、アンタも道連れじゃぞ』

「……お、荻原殿?」

沈黙する荻原に、柳沢が不審そうに眉をひそめた。

「はっ!!」

荻原は必死に顔を作り、声を張り上げた。

「恐れながら柳沢様! 全くの杞憂にございます! 吉良殿の塩の商いは、すべて公儀の法に則った正当なもの。むしろ、その利益の一部は、公儀の御金蔵を潤す大きな助けとなっております! 赤穂の浪人どもを雇い入れたのも、江戸の治安を守るための、吉良殿の『慈悲深きご配慮』と存じます!」

完璧なスピンだった。

吉良義周(若林の養子)から教え込まれた通りの、柳沢を納得させるための模範解答である。

柳沢は、荻原の顔をじっと見つめた。

数秒の、永遠にも感じられる沈黙。

「……そうか。荻原殿がそう言うのであれば、公儀の財政に憂いはないのだな」

「は、ははっ! 御意にございます!」

「ならば良い。下がれ」

荻原が逃げるように部屋を退室した後、柳沢吉保は一人、薄暗い部屋で目を細めた。

「……嘘をつきおったな、荻原」

柳沢の呟きは、氷のように冷たかった。

幕府の最高権力者である柳沢の目を、一介の官僚が誤魔化せるはずがない。荻原が異常なまでに吉良を庇う姿を見て、柳沢の疑念は確信へと変わっていた。

(吉良上野介……あの温厚で無能な高家の老人が、いつの間に幕府の勘定奉行を丸め込むほどの『毒』を身につけたのだ……?)

世論、金、そして官僚。

まるで、目に見えない巨大な蜘蛛の巣が、江戸幕府というシステムの下に張り巡らされているような悪寒。

(もしやあの老人、幕府を裏から操ろうとしているのではないか……? もしそうなら、上様(将軍)の御威光に傷がつく前に、ここで確実に摘み取らねばならん)

柳沢吉保の政治哲学もまた、若林と同じく『君主論』(マキャベリズム)の権化である。将軍という絶対権力を守るためなら、どんな卑劣な手段も厭わない。

「……誰かある」

柳沢が低く呼ぶと、部屋の影から音もなく、黒装束の男が姿を現した。将軍家直属の隠密(忍び)である。

「吉良邸の周辺を探れ。それと、三河の塩田に潜り込み、あの赤穂の狂犬(大石内蔵助)が本当に吉良の軍門に下ったのか、裏を取れ。……少しでも怪しい動きがあれば、ただちに知らせよ」

「はっ」

隠密は一瞬で影に溶けるように消え去った。

柳沢は、文机の上に広げられた江戸の絵図を見下ろし、冷たい笑みを浮かべた。

「吉良上野介。貴様がただの幸運な老いぼれか、それとも国を傾ける化け物か……。公儀の力をもって、その化けの皮をひん剥いてやろう」

***

同じ頃。本所松坂町、吉良邸。

「……柳沢が、勘定奉行の荻原を詰問いたしました。さらに、吉良邸および三河へ隠密を放った模様にございます」

縁側で煙管きせるを燻らせる若林幸隆に、無機質な瞳を持つ少女・お雪が、淡々と報告を上げた。

彼女が構築した江戸中の瓦版屋と浮浪者からなる『情報網』は、すでに江戸城の奥深く、柳沢の私室での密談さえも筒抜けにするほどの精度を誇っていた。

「殿。いかがなされますか。柳沢に目をつけられたとなれば、厄介なことに……」

傍らに控える小林平八郎が、緊張した面持ちで尋ねる。

だが、若林は少しも動じることなく、極悪非道な笑みを浮かべ、煙管の雁首を灰吹に打ち付けた。

――カンッ!!

「フン。ようやく動きおったか、狸親父。遅すぎたくらいじゃ」

若林は、ドス黒い広島弁で吐き捨てた。

「柳沢吉保。お勉強のできる秀才じゃが、所詮は『将軍の虎の威を借る狐』に過ぎん。ワシらのような、泥水すすって選挙と派閥抗争を勝ち抜いてきた『本物の泥棒政治家』とは、経験値レベルが違うわ」

若林は、お雪に向かってアゴでしゃくった。

「お雪。柳沢の放った隠密どもは、殺さずに泳がせろ。あいつらが欲しい情報を、わざと、少しずつ食わせてやるんじゃ。……柳沢が『自分が吉良の尻尾を掴んだ』と勘違いするようにな」

「御意」

お雪は感情のない声で答え、音もなく姿を消した。

「ええか、平八郎。相手が疑いを持った時は、必死に隠すのは下策じゃ。逆に、相手が食いつきたくなるような『デカい餌』をぶら下げて、土俵ルールをワシらの側に引きずり込むんじゃ」

若林は、懐から取り出したオランダ渡りの懐中時計の蓋をカチリと開けた。

文字盤の針は、すでに次なる段階――『国家乗っ取り』のフェーズへと進んでいる。

「次はワシらから仕掛けるぞ。……柳沢の狸親父の度肝を抜く、日本の経済システムそのものをひっくり返す『魔法』を見せてやる」

江戸幕府の最高権力者・柳沢吉保と、現代の政治怪物・若林幸隆。

二人の知恵者による、一滴の血も流さぬ、しかし国家の命運を懸けた壮絶な『見えない戦争』が、いよいよ本格的に火蓋を切ろうとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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