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EP 2

『韓非子』 ―― 軟弱なる跡取り・吉良義周の覚醒(システムに魅入られた怪物)

「……違う。やり直しじゃ」

吉良邸の奥座敷。

低く、しかし絶対的な冷酷さを帯びた声が響く。

その声の主である若林幸隆(吉良上野介)の前に正座し、ガタガタと肩を震わせているのは、うら若き青年武士であった。

名を、吉良きら 義周よしちか

名門・上杉家から養子として迎えられ、本来ならばこの吉良家を継ぐはずの、次期当主である。

「義周。お前は今、三河の塩を江戸に運ぶ廻船問屋が『嵐で船が痛み、納期が遅れるため違約金を免除してほしい』と泣きついてきた件に対し、『寛大な処置をとるべき』と答えたな」

「は、はい……。不慮の天災にございますれば、ここで情けをかければ、問屋も必ずや恩に報いて……」

――カンッ!!

若林が純銀の煙管の雁首を灰吹に叩きつけた瞬間、義周は「ひっ!」と情けない悲鳴を上げて首をすくめた。

刃傷沙汰の事件以降、養父である上野介は完全に別人のような怪物へと変貌してしまった。その圧倒的な覇気と、底知れぬ知謀を前に、気弱な義周は常に怯えきっていた。

若林は、ゆっくりと紫煙を吐き出しながら、ドス黒い広島弁で青年に語りかけた。

「ええか、義周。おどりゃあ、まだ『情け』だの『恩』だので人間が動くと思っとるんか」

「そ、それは……武士の情けというものが……」

「寝言は寝て言え。中国の古典『韓非子』にはこうある。『親が子を愛しても、子は必ずしも親に従わん。じゃが、君主が法と刑罰を厳格にすれば、民は必ず従う』とな」

若林は、机上の帳簿を煙管でトントンと叩いた。

「人間ちゅうのはな、根本的に己の利益しか考えとらん『利己的な獣』じゃ。お前が問屋の違約金を免除すれば、奴らは『吉良の若様はチョロい』と学習する。次は船が痛んでなくても嘘をつき、納期を誤魔化すようになる。……『情』は組織を腐らせる猛毒なんじゃよ」

「……っ」

「いいか。組織を動かすのは『道徳』ではない。絶対的な『ルール(法)』と、それを破った時の容赦のない『ペナルティ(罰)』じゃ。ルールを破ったなら、相手が泣こうが喚こうが、機械的に罰を与えろ。それが結果的に、全体の秩序と利益を守る唯一の道じゃ」

若林の説く政治哲学は、義周がこれまで学んできた儒教的な「仁義」や「思いやり」を根底から否定するものだった。

冷たく、非情で、血も涙もない。

だが――。

(……なぜだろう。父上のお言葉は、恐ろしいはずなのに、不気味なほど『筋』が通っている)

義周の脳の奥底で、何かが疼き始めていた。

彼は本来、武芸にも秀でておらず、気弱で、上に立つ器ではないと周囲から軽んじられてきた。人の顔色ばかりを窺い、「どうすれば恨まれないか」ばかりを考えて生きてきたのだ。

だが、若林の言う「システム(法)」に依存すれば。

自分の感情も、相手の感情も一切無視して、ただ『ルール』という名の数式に当てはめて答えを出すだけでいいのだとしたら。

それは、どれほど精神的に『楽』だろうか。

「……義周」

若林が、獲物を見定めた鷹のような目で青年を見据えた。

「お前に、一つ『実技試験』を課す」

***

数日後。

江戸市中にある、吉良家の塩を扱う商館の奥屋敷。

義周は、上座で一人、冷や汗をかきながら座っていた。

目の前にいるのは、幕府の勘定奉行の配下である下級役人だ。吉良家の塩の専売において、幕府側の手続きを請け負っている男である。

「いやあ、吉良の若君。此度の塩の取引も大層な儲けのようで。……つきましては、我ら公儀の手続きにも、少々『油(賄賂)』を足していただかないと、書類がいつまで経っても上に回らんとですな。ガハハッ!」

下品に笑う役人。明らかに足元を見て、不当な賄賂の増額を要求してきている。

以前の義周なら、波風を立てるのを恐れ、「わかりました、幾ばくか包みましょう」とへりくだっていただろう。

だが、今日の彼の懐には、若林から渡された『一つの武器』が忍ばせてあった。

(父上は仰った。人間は『恐怖』と『利益』でしか動かない、と……)

義周は、震えそうになる手を必死に抑え、懐から一枚の紙切れを取り出し、役人の前にスッと差し出した。

「……役人殿。その前に、これを見ていただきたい」

「ん? なんですかな、吉良の若君からの付け届けの目録……ひっ!?」

紙切れを見た瞬間、役人の顔から一気に血の気が引き、脂汗がドッと噴き出した。

そこには、役人が過去数年にわたり、幕府の公金を誤魔化し、吉良家以外の商人からも不正な賄賂を受け取っていた詳細な日時と金額が、完璧な裏付けと共に記されていたのだ。

(若林の飼い犬となった諜報少女「お雪」が、僅か二日で調べ上げた絶対的な弱みである)

「な、ななな、なぜこれを!? これは、でたらめで……!」

狼狽する役人を前にした瞬間。

義周の中で、何かが完全に『弾けた』。

(ああ……)

相手が必死に取り繕い、怯え、見苦しく震えている。つい先ほどまで自分を侮っていた人間が、一枚の『情報』という絶対的な暴力の前に、這いつくばっている。

義周の脳髄に、これまでの人生で味わったことのない、強烈で甘美な「支配のドーパミン」が溢れ出した。

気弱な青年武士の顔が、音を立てて剥がれ落ちた。

「でたらめかどうかは、勘定奉行・荻原重秀殿にお見せすればすぐ分かること。公儀の金を横領したとなれば、切腹どころか、お家断絶、一族郎党すべてが路頭に迷うことになりましょうな」

「お、お助けを! ど、どうか! 出来心だったのです!!」

役人が畳に額をこすりつけ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして命乞いを始めた。

義周は、信じられないほど冷ややかな声で、機械的に宣告した。

「助ける理由は一つもない。だが、吉良家のために『無償』で、かつ今まで以上に迅速に手続きを回す『奴隷』となるなら……この書類は、私の手元に留めておいてやろう」

「や、やります! 何でもやります!! 豚にでも馬にでもなりまする!!」

「よろしい。下がれ」

役人が逃げるように部屋を出て行った後、義周は自分の両手を見つめた。

手が、震えている。だがそれは、恐怖からではない。

人間から「情」を排除し、情報とシステムだけで相手を支配する、極限の快感による武者震いだった。

(これが……これが、父上が見ている世界……! なんという美しさ、なんという合理性……!)

***

吉良邸に戻った義周は、若林の部屋の前に正座し、深く頭を下げた。

「……父上。ご指示通り、幕府の役人の『首輪』を外れぬよう締め上げてまいりました。奴は今後、一生涯、吉良家のタダ働きの駒として機能いたします」

その報告を聞き、若林は口元を歪めて笑った。

「声の震えが消えたな。……どうじゃ、義周。感情を殺し、『システム』を回す気分は」

「最高、にございます」

義周が顔を上げた。

かつてのオドオドとした気弱な青年の面影は、そこには微塵もない。

あるのは、一切の無駄を削ぎ落とした、冷酷無比な官僚エリートの瞳だった。

若林は、煙管の雁首をトントンと打ち鳴らした。

「よう仕上がった。ええか義周、お前は吉良家の当主として表舞台でふんぞり返る器ではない。……お前はこれから、幕府の中枢へ入り込め」

「幕府の中枢へ……私が、でございますか?」

「そうじゃ。表の権力など、ちょっと風向きが変わればすぐに首が飛ぶハリボテじゃ。お前は、幕府という巨大な機械の『最も優秀で、最も目立たない歯車』になれ。書類を握り、カネの流れを握り、役人どもの弱みを握り、決して表に出ず、裏から国家のシステムそのものを操るんじゃ」

若林は、義周に「究極の官僚主義」の極意を授けた。

大名としての栄達ではなく、ディープステート(影の政府)の構成員としての役割である。

「大石のタヌキどもが稼ぐ『カネ』、お雪が拾い集める『情報』。それらを幕府の『法』と結びつけ、合法的かつ冷酷に日本を支配する『脳髄』がお前じゃ。……やれるな、義周」

「ハッ……!」

義周は、もはや恐怖ではなく、神に対するような狂信的な憧憬の目を向けて平伏した。

「この命、父上の創り出す『完璧なるシステム』のにえとして捧げます」

若林幸隆という怪物の放つ劇毒は、こうして一人の心優しい青年を、幕府を内側から腐らせ、支配するための「最高傑作の怪物」へと作り変えたのである。

盤面には、狂信的な労働力(大石)、最強の諜報の目(お雪)、そして冷酷なる官僚の頭脳(義周)が揃った。

若林幸隆の「江戸幕府乗っ取り計画」は、いよいよ本格的な牙を剥き始める。

読んでいただきありがとうございます。

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