第十二章 幕府乗っ取り・暗黒の資本主義編
『論語と算盤』 ―― 忠臣の社畜化と、買われた無機質な少女
三河国、吉良荘。
江戸から遠く離れたこの海沿いの領地で、照りつける初夏の太陽の下、泥と汗にまみれて塩田を走り回る男たちの姿があった。
「よし! 次の石炭を窯へ運べ! 火を絶やすな!!」
野太い声で現場を指揮しているのは、数ヶ月前まで赤穂藩の筆頭家老としてふんぞり返っていた男――大石内蔵助である。
彼が身に纏っているのは、立派な絹の着物でも、討ち入りのための鎖帷子でもない。潮風で色褪せた粗末な麻の単衣だ。
かつての部下である四十六人の赤穂浪士たちも、顔を真っ黒にしながら、重い石炭の籠を運び、海水を汲み上げている。
だが、その顔に「悲壮感」や「復讐心」は欠片もなかった。彼らの目は、むしろ奇妙なほどの活気と、ある種の『狂気的な充実感』に満ちていた。
「大石の旦那! 今日もえれぇ精が出るねぇ!」
通りかかった地元の農民が、笑顔で大石に手ぬぐいを差し出した。
「おお、作兵衛殿。なに、これくらい造作もない。……それより、今年の塩の出来はどうだ?」
「へへっ、最高でさぁ! 吉良の御隠居様(若林)が教えてくだすった『入り浜式』の改良とやらで、海水を引くのがうんと楽になった。おまけに薪じゃなくて『石炭』で窯を焚くもんだから、塩の採れる量が昔の三倍になりやしたよ!」
作兵衛は、吉良のいる江戸の方角に向かって深く手を合わせた。
「本当に、御隠居様は生き仏だ。塩が売れて村が潤い、ワシら百姓は誰も腹を空かせてねえ。……旦那たちも、あんな立派なお方に雇ってもらえて、運が良かったな!」
「あ、ああ……そうだな。本当に……」
大石は、手ぬぐいで汗を拭いながら、轟々と燃え盛る巨大な製塩窯を見つめた。
胸の奥で、かつて信奉していた「武士の忠義」という価値観が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。
(……浅野の殿は、ご自身の『面子』のために江戸城で刃傷に及び、我ら家臣を路頭に迷わせた。だが、吉良様はどうだ)
吉良(若林)は、己のプライドなど一顧だにせず、ただひたすらに『算盤(経済)』を弾き、領民を豊かにし、かつて己の命を狙った大石たちにすら「飯を食うための仕事と給金」を与えたのだ。
武士の意地と、明日の飯。
大義名分と、領民の笑顔。
一体、為政者としてどちらが『正解』なのか。答えは、火を見るよりも明らかだった。
(我らはなんと愚かであったのか。死んだ主君の幻影にすがり、この泰平の世で人殺しを企てていたなど……。真の忠義とは、死ぬことではない。生きて、この巨大な『経済の歯車』となり、国を豊かにすることなのだ……!)
大石の脳髄で、何かが決定的に切り替わった。
現代の言葉で言えば、ブラック企業に勤める社員が、カリスマ社長の圧倒的な実力を見せつけられ、完全に『社畜として洗脳された』瞬間であった。
「皆の者!! 手を休めるな!!」
大石は、燃え盛る窯の前で、かつてないほどの巨大な声で咆哮した。
「我らの流す汗の一滴が、吉良様の『算盤』を動かし、この国を豊かにするのだ!! 浅野の殿に捧げるはずだった命、今日より吉良様……いやさ、我らが『大殿』のために使い潰せ!!」
「「「おおおおおっ!! 大殿のために!!」」」
元・赤穂浪士たちの狂信的な雄叫びが、三河の海に響き渡った。
若林幸隆の『論語と算盤』の哲学は、テロリスト集団から毒を完全に抜き去り、最強の「生産労働部隊」へと作り変えてしまったのである。
***
同時刻。江戸、吉良邸。
「……ハックション!」
縁側でくつろいでいた若林幸隆は、不意に大きなくしゃみをした。
「殿? お風邪でございますか?」
傍らに控えていた小林平八郎が気遣う。
「いや……どこぞのタヌキがワシの噂でもしとるんじゃろう。まあよい。……平八郎、頼んでおいた『品』は届いたか?」
「はっ。こちらに」
平八郎が合図をすると、襖が静かに開き、小柄な人影が部屋に入ってきた。
年齢は十二、三歳ほどだろうか。不自然なほど白い肌と、整った顔立ちをした少女だった。
だが、若林の目を惹いたのはその容姿ではない。
少女の「瞳」であった。
一切の光を宿さず、感情の揺らぎが全くない。絶望すら通り越し、世界に対する一切の興味を失った、完全なる無機物の目。
吉原の遊郭に売られる寸前だったところを、平八郎が女衒から銀三枚で買い取ってきた、「名無し」の孤児である。
少女は若林の前に座ると、抑揚のない声で尋ねた。
「……お前が、新しいご主人様? 私、何をすればいい? 脱げばいい?」
平八郎が「無礼な!」と刀の柄に手をかけるが、若林はそれを片手で制した。
そして、懐から純銀の煙管を取り出し、雁首を灰吹に打ち付けた。
――カンッ!!
甲高い音が響いても、少女の目は瞬き一つしなかった。
若林は口角を歪め、極悪非道な笑みを浮かべた。
「ええ目じゃ。親に売られ、世間から見捨てられ、己の命の価値すらも手放した……完璧な『空白』じゃな」
若林は、ドス黒い広島弁を解放し、少女を見下ろした。
「ええか、ガキ。おどりゃあの身体になど一文の興味もねえ。ワシが欲しいのは、お前の『脳髄』じゃ」
「……のう、ずい?」
「そうじゃ。これからお前に、この世で最も恐ろしく、最も美しい『魔法』を教えちゃる。それはな……『情報』じゃ」
若林の政治哲学、『韓非子』と『孫子』の融合。
相手を支配するには、愛情や忠誠心を求めてはならない。圧倒的な「利益」と「恐怖」、そして「役割」を与えることでのみ、人は絶対の駒となる。
「ワシの目となり、耳となれ。江戸の町の裏路地から、大名の寝所の天井裏まで入り込み、ありとあらゆる『秘密』をワシの元へ運んでこい。お前が他人の弱みを握るたび、お前はこの国で最も恐れられる存在になる」
若林は、少女の目の前に、ずしりと重い小判の束を放り投げた。
「愛情だの、優しさだの、安いもんに縋るな。他人の命運を握り、カネと情報で世界を裏から操る『支配の快感』……それを、ワシがお前の空っぽの頭に叩き込んじゃる」
少女の死んだ瞳の奥で、何かが微かに明滅した。
今まで、自分を「モノ」か「性欲の捌け口」としてしか見てこなかった大人たちの中で、目の前の老人は全く違う。
自分という存在に、国家を揺るがすほどの『役割』を与えようとしているのだ。
「……私の、名前は?」
少女が初めて、自らの意志で問いかけた。
若林は紫煙を細く吐き出し、窓の外で季節外れに舞い散る粉雪を見つめた。
「お前の名は『お雪』じゃ。……音もなく降り積もり、すべての痕跡を冷たく覆い隠す。お前にぴったりの名じゃろう?」
「……お雪」
少女――お雪は、その名を舌の上で転がし、そして、初めてその唇に微かな「笑み」を浮かべて深く平伏した。
「御意のままに。……私のすべてを、あなた様の『盤上』に捧げます」
江戸時代最強にして最凶の諜報機関が、産声を上げた瞬間であった。
***
「……さて、と」
若林はお雪を下がらせると、立ち上がり、江戸城の方角を冷徹な目で見据えた。
「赤穂のタヌキどもは資本主義の奴隷(社畜)となり、情報網を構築する『目』も手に入れた。防衛と内政の基盤は、これで完璧じゃ」
若林は、オランダ渡りの懐中時計を取り出し、カチカチと時を刻む針を見つめた。
第1章の防衛戦は終わった。ここから始まるのは、現役の与党幹事長による「国家乗っ取り(クーデター)」である。
「待っとれよ、上様。そして、狸親父の柳沢吉保。……泰平の世に胡座をかいたお前らのシステムを、ワシの『算盤』で内側から跡形もなく喰い破ってやるわい」
老いた怪物の喉の奥から、低く、ドス黒い笑い声が漏れた。
元禄の世を覆う、底知れぬ暗黒の資本主義の幕が、今、静かに上がろうとしていた。
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