EP 10
『孫子』最終手 ―― 怪物との茶会、忠義が算盤に屈する日
元禄14年、12月14日。
史実において、赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入りを果たし、雪を血に染めた運命の日である。
奇しくもこの日、江戸の空からは数日ぶりの粉雪が舞い落ちていた。
だが、本所松坂町の吉良邸の門を潜ったのは、武装した四十七人の凶刃の群れではない。
ただ一人、丸腰で、みすぼらしい町人髷に身をやつした初老の男――大石内蔵助その人であった。
「……こちらへ」
冷徹な声で案内するのは、吉良家防衛隊長の小林平八郎である。
大石は門での身体検査で脇差はおろか、懐紙に至るまで全て没収されていた。丸腰の大石は、案内される道すがら、吉良邸の内部構造を目の当たりにして絶望を深めていた。
(なんという……これは屋敷ではない。城塞だ)
迷路のように入り組んだ目隠し塀、死角のない高台の銃眼、要所に配置された屈強で血に飢えた目つきの番兵たち。
もし仮に、資金も大義も奪われずに四十七人で突っ込んでいたとしても、門を破った数分後には全滅していたであろうことが、嫌というほど理解できた。
武士の意地などという精神論が通用する空間ではない。ここは、完全な『殺戮のシステム』であった。
やがて大石は、庭の奥にある静謐な茶室へと通された。
「……入れ」
低い、しかし腹の底に響く声に促され、大石は躙り口から中へと入る。
薄暗い茶室の上座。そこには、純銀の煙管を咥え、静かに湯を沸かしている吉良上野介――若林幸隆が座っていた。
「よう参られた、大石殿。いや……今はただの浪人であったな」
若林の目は、獲物をいたぶる猛禽類のように冷酷な光を放っていた。
大石は土下座に近い形で平伏した。かつては「いつかこの老いぼれの首を」と憎悪を燃やした相手だが、今の大石の胸にあるのは、底知れぬ怪物に対する絶対的な恐怖と無力感だけだった。
「吉良、様……。此度は、浅野大学様へのご配慮……ならびに、私のような者をこの場にお招きいただき……」
「挨拶は不要じゃ」
若林は茶を点てる手を止め、大石の前にスッと茶碗を差し出した。
「飲め。毒など入っておらん。……お前を殺すのに、毒も刃も必要ないことは、とうに分かっておろう」
大石は震える手で茶碗を取り、一口すすった。熱い茶が、冷え切った胃の腑に落ちていく。
「さて。ワシの時間は高い。本題に入ろうか」
若林は煙管の雁首を、灰吹の縁に打ち付けた。
――カンッ!!
甲高く澄んだ金属音が、茶室の静寂を切り裂く。
大石の肩がビクッと跳ね上がった。若林の纏う空気が、ただの老貴族から、天下を動かす『絶対的な権力者』のそれに変貌した瞬間だった。
若林は紫煙を吐き出し、かつて国会や密室の料亭で幾人もの政敵を葬り去ってきた「地」の言葉――広島弁を解放した。
「ええか大石。おどりゃあ、今日まで随分と苦しい思いをしてきたじゃろう。江戸の瓦版に主君を狂人と書き立てられ、大坂の隠し金は凍結され、挙句の果てには、命を懸けて守ろうとした浅野大学から『迷惑じゃ、死んでくれ』と突き放される……」
大石の顔が苦痛に歪み、畳を掻き毟るように拳を握りしめた。
「全部……全部、貴方様が裏で手を引いておられたのですね。情報も、カネも、公儀(幕府)の法すらも……」
「当然じゃ。政治っちゅうのはな、『戦う前』に盤面を支配した奴が勝つんじゃ。お前らは『どうやってワシを殺すか』しか考えとらんかった。じゃがワシは、『どうすればお前らが勝手に自滅するか』をシステム化した。……その『格の違い』が、今のこの無惨な姿じゃ」
若林の言葉は、一言一言が鋭い刃となって大石のプライドを切り裂いていく。
歴史上最高の暗殺部隊のリーダーは、今や、一滴の血も流さずに心臓を握り潰されようとしていた。
「大石よ。お前が後生大事に抱えとる『忠義』とやらは、一体いくらの価値があるんじゃ?」
「……っ!」
「お前が意地を張れば張るほど、赤穂の浪人どもは飢えて死ぬ。お前が刃を抜けば、浅野大学は切腹じゃ。テメェの自己満足の『テロリズム』のために、何百人の人間を地獄の底に引きずり込む気じゃ?」
大石の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
すべて正論だった。主君の仇討ちという大義名分は、この怪物の前では、ただの迷惑なエゴでしかなかったのだ。
「もう……もう、我々には何も残っておりませぬ……」
大石は、畳に額を擦り付けた。武士の誇りも、家老としての威厳も、すべてが完全にへし折られた瞬間だった。
「吉良様……私が悪うございました……。私の首一つで、どうかお許しを……! 他の者たちや、大学様には……どうか、どうかご慈悲を……っ!!」
嗚咽を漏らしながら命乞いをする大石。
それを見下ろしながら、若林はオランダ渡りの懐中時計の蓋をカチリと開けた。
『孫子』の極致。戦わずして人の兵を屈する、完全なる勝利の瞬間である。
「……命乞いをする相手を間違えとるぞ、大石」
若林の声色が、ふっと変わった。
冷酷な為政者の声から、実利を重んじる経営者の声――『論語と算盤』の思考への切り替えである。
「ワシはお前の首など一文の価値もないと言うたはずじゃ。……じゃがな、『労働力』としては、まだ使い道があるやもしれん」
大石が、涙に濡れた顔をハッと上げた。
「労働、力……?」
若林は、懐から数枚の書状を取り出し、大石の前に放り投げた。
「ワシは今、三河の領地で莫大な量の『塩』を作らせとる。その塩は、大坂の天王寺屋らを通じて全国へ売り捌く手筈になっとるが……いかんせん、カネの計算と、現地の荒くれ者をまとめる『現場監督』が足りん」
大石は、目を白黒させた。
「大石。お前をはじめ、赤穂の狂犬ども……残り四十六人おるそうじゃな。そいつらを、ワシの塩田の専属労働者として雇い入れてやる」
「なっ……! 仇である貴方様の下で、我々に働けと……!?」
「嫌なら断ってもええぞ。そのまま雪の中で野垂れ死ぬか、浅野大学を巻き込んで切腹するか、好きに選べ」
若林は底意地の悪い笑みを浮かべた。
「じゃが、ワシの塩田で働けば、給金は弾む。部下の家族も養えるじゃろう。武士の刀を捨て、『算盤』を持て。道徳(忠義)ばかりを喚くのではなく、経済を回して初めて、国も人も生きていけるんじゃ」
それは、若林による絶対的な服従の儀式であった。
刃を交えるのではなく、「カネを稼ぐための歯車」として赤穂浪士たちを組み込む。復讐心などという非生産的な感情を、資本主義のシステムの中に溶かして消滅させるのだ。
大石は、しばらくの間、ワナワナと肩を震わせていた。
かつて主君を殺した相手。憎き仇。
だが、その仇が今、飢え死に寸前の部下たちに「生きる道(飯)」を提示している。武士としての名誉は完全に失われるが、命は、繋がる。
「…………負けました」
大石は、深い、深い嘆息とともに、両手をついて深く頭を下げた。
「私を含め、四十七名……刀を捨て、吉良様の下で、粉骨砕身、働かせていただきます……」
元禄14年12月14日。
この日、江戸を震撼させるはずだった「赤穂事件(忠臣蔵)」は、一滴の血も流れることなく、一人の天才政治家による圧倒的な資本力と政治力の前に、静かに、そして完全に消滅した。
***
大石がフラフラとした足取りで屋敷を去った後。
平八郎が、興奮を隠しきれない面持ちで茶室に入ってきた。
「殿……! 見事な御手腕! これで、吉良家の憂いはすべて絶たれましたな!!」
「フン。あんな田舎侍の始末など、ただの準備運動に過ぎんわ」
若林は、純銀の煙管に新しい煙草を詰めながら、視線を茶室の窓の外――雪の降る江戸城の方向へと向けた。
「平八郎。ワシらが塩の専売で莫大な利益を上げ、幕府の老中や勘定奉行どもを裏で操り始めたこと……そろそろ、本丸の『上様(徳川綱吉)』と、その腹心・柳沢吉保あたりが、不気味に思い始める頃合いじゃ」
平八郎の表情が引き締まる。
「テロリストの処理は終わった。ここからが、ワシの本当の『政治』じゃ」
若林幸隆の瞳の奥で、ドロドロとした暗い欲望の炎が燃え上がった。
かつて戦前の日本を大改革した怪物が、今度は江戸幕府という超巨大な国家機構そのものを、内側から完全に食い破ろうとしていた。
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