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EP 9

『君主論』第六手 ―― 完璧なる「人質」と、江戸城下の絶望

元禄14年、秋。

江戸の町は、澄み切った秋晴れの空の下、活気に満ち溢れていた。

その賑わう日本橋の往来を、深く編笠を被り、みすぼらしい町医者の姿に変装した初老の男が、泥を這うような足取りで歩いていた。

元・赤穂藩筆頭家老、大石内蔵助である。

(……なんと、いうことだ。これが、江戸の現実か)

大石の耳には、すれ違う町人たちの弾むような声が次々と飛び込んでくる。

「おう、聞いたか? 今日も吉良様が浅草寺に多額の寄進をなさったそうじゃねえか」

「ああ、お陰で炊き出しが出て、長屋の連中も大助かりさ。本当に、吉良様は生き仏のようなお方だ」

「それに引き換え、あの狂った浅野の家来どもは、まだどこかで強盗の算段でもしてるんじゃねえだろうな。物騒で敵わねえよ」

大石は、編笠の下でギリッと唇を噛み締め、血の味が広がるのを感じた。

吉良上野介が仕掛けた情報戦スピンコントロールと、領地の塩の専売による莫大な経済力。若林幸隆という現代の政治怪物は、その圧倒的な資金を幕府の役人への賄賂(ロビー活動)だけでなく、江戸の町民への「福祉バラマキ」にまで活用していたのである。

これにより、江戸の世論は完全に「慈悲深き吉良様と、迷惑な赤穂のテロリスト」という構図で完全に固定化されてしまった。

(世論も、カネも、武力での暗殺も、すべて封じられた。……だが、我らにはまだ、最後の『希望』がある)

大石は、重い足を引きずりながら、ある小さな武家屋敷へと向かっていた。

浅野内匠頭の弟であり、浅野家の正統な後継者である浅野大学あさの だいがくの仮住まいである。

大石の最後のシナリオ。それは、浅野大学を当主として「浅野家のお家再興」を幕府に嘆願しつつ、それが叶わぬと確定した瞬間に、大学の許可を得て「主君の無念を晴らす討ち入り」を決行するというものだった。

浅野家という御神輿みこしさえあれば、まだ浪士たちの心は繋ぎ止められる。

大石は、屋敷の裏口から密かに取り次ぎを頼み、薄暗い一室へと通された。

「……大学様。内蔵助にございます。お労しや、このような狭い屋敷で……」

大石が涙ながらに平伏すると、上座に座っていた若い武士――浅野大学は、大石の顔を見るなり、幽霊でも見たかのように激しく後ずさりした。

「く、内蔵助……! お、お前、なぜここへ来た!? 誰かに見られてはおらぬだろうな!?」

「だ、大学様……? いかがなされました。私は、御家再興の道筋と、今後の……」

「黙れ!! お前たち過激派が動けば動くほど、私の立場が危うくなるのが分からんのか!!」

大学のヒステリックな怒声に、大石は呆然と顔を上げた。

大学はガタガタと震える手で、一枚の書状を懐から取り出し、大石の顔に投げつけた。

「これを読め!! 吉良上野介殿から、直々に送られてきた書状だ!!」

「吉良、から……!?」

大石は震える手で書状を拾い上げ、目を走らせた。

そこには、流麗な筆致で、極めて丁寧な文言が並べられていた。

『浅野内匠頭殿のご乱心につきましては、私怨など一切なく、ただただ悲劇であったと心を痛めております。残された大学殿には何の罪もございませぬ。私から幕府の老中衆に強く働きかけ、大学殿には細やかながら知行(領地)が与えられ、浅野の家名が存続できるよう手配いたしました』

「な……っ!? 吉良が、御家再興の助命嘆願を……!?」

大石は息を呑んだ。仇であるはずの吉良が、浅野家を救ったというのか。

だが、書状の続きを読んだ瞬間、大石の全身の血が凍りついた。

『ただし、懸念が一つだけございます。浅野家の旧臣の中には、内匠頭殿の狂気を引き継ぎ、幕府の裁定に逆らってテロ行為(凶行)を企てる不逞の輩がいるとの噂。もし彼らが江戸の治安を乱すようなことがあれば、それは「浅野家そのものが公儀に刃向かう反逆者の血筋である」と証明することになります。その際、大学殿の命も保証はできかねます。どうか、旧臣たちを厳しくお戒めください』

「ああ……あああっ……」

大石の喉から、声にならない絶望の呻きが漏れた。

完璧な、あまりにも完璧な『政治的封じ手』だった。

大石たちが討ち入りを目指す最大の理由は「浅野家の名誉回復と、主君の無念を晴らすこと」である。

だが、吉良(若林)は、その浅野家の後継者である大学を「庇護」するという名目で、実質的な『人質』にとったのだ。

もし大石たちが吉良邸に斬り込めば、それは「吉良への復讐」ではなく、「浅野大学の助命嘆願を無下にし、幕府に反逆した行為」となる。結果、討ち入りの翌日には、浅野大学は幕府によって切腹させられ、浅野家は未来永劫、完全に滅亡する。

「おわかりか、内蔵助! 私は吉良殿の温情と公儀の慈悲によって、生かされているのだ!!」

大学は、涙と鼻水を流しながら大石に怒鳴りつけた。

「お前たちが妙な気を起こせば、私は腹を切らねばならん! 頼む、もう私に関わらないでくれ! 討ち入りなどという狂った真似は、絶対にやめてくれ!!」

主君の弟からの、完全なる拒絶。

大石たちが命を懸けて守ろうとした「忠義」は、守るべき相手から「迷惑な狂気」として切り捨てられたのだ。

「……大学、様。我らは……我らの忠義は……」

「帰れ!! 二度と私の前に姿を見せるな!!」

大石は、土砂降りの雨の中に放り出されたような虚無感の中、屋敷を追い出された。

手足をもがれ、目を潰され、最後に残っていた「大義(浅野家)」という背骨すらも、見事なまでにへし折られた。

(吉良上野介……お前は、人間ではない。人の心を持たぬ、悪魔だ……っ!)

大石内蔵助の足から力が抜け、江戸の冷たい土の上に、泥まみれになって崩れ落ちた。

***

同じ頃。本所松坂町の吉良邸、奥座敷。

「……殿。隠密からの報告によりますと、大石のタヌキが浅野大学の屋敷から、這うようにして出てきたとのこと。完全に心が折れた様子でございます」

小林平八郎の報告を受け、若林幸隆(吉良上野介)は純銀の煙管きせるから、ふうっと紫煙を吐き出した。

「当然じゃ。マキャベリの『君主論』によれば、敵を完全に無力化するには、武力で叩き潰すよりも、敵が守ろうとしている『存在理由そのもの』を自らの手で保護し、支配下に置くのが最も効果的じゃ」

若林は、煙管の雁首を灰吹に打ち付けた。

――カンッ!

「ワシは浅野大学に恩を売り、幕府の庇護下に置いた。これで大石どもは、ワシを攻撃すれば『主君の弟を殺す反逆者』になり、何もしなければ『何もできなかった腰抜け』になる。どっちに転んでも、奴らの負け(詰み)じゃ」

平八郎は、己の主君がやってのけた「一滴の血も流さぬ虐殺」に、深い畏怖の念を抱いた。

かつて赤穂浪士というテロリスト集団に怯えていた日々が嘘のようである。今の吉良邸は、江戸で最も安全で、最も権力と金に満ちた不可侵の要塞となっていた。

「殿の御知略、まさに神算鬼謀。これで、赤穂の狂犬どもも完全に息の根が止まりましょう。……もはや、放置しておいても野垂れ死ぬだけかと」

しかし、若林の目は笑っていなかった。

彼の中にある『勝つことそのものへの快感』、そして完璧主義が、中途半端な結末フェードアウトを許さなかった。

「甘いぞ、平八郎」

ドス黒い広島弁が、静かな部屋に響き渡る。

若林は、懐中時計の蓋を開け、カチカチと時を刻む音に耳を傾けた。

「政治の基本は『禍根を断つ』ことじゃ。大石のタヌキは、今は絶望して泥水を啜っとるじゃろうが、放置すれば何年後かに、捨て鉢になった数人引き連れて自爆テロを起こしかねん。……最後まで油断せず、完膚なきまでに『息の根』を止める」

「息の根を止める……と仰いますと? 手足をもがれ、牙も折られた奴らに、これ以上何を?」

若林は、悪魔のように嗜虐的な笑みを浮かべた。

「簡単じゃ。大石内蔵助、ただ一人を……この吉良邸の『茶室』に招待する」

「なっ……!? 大石を、この屋敷に!?」

平八郎が驚愕に目を剥く。

「そうじゃ。丸腰でな。……ワシと大石の、一対一サシの会談じゃ。江戸の世論も、幕府の権力も、莫大なカネも、すべてワシの掌の上。その圧倒的な『格の違い』を、奴の脳髄に直接叩き込んでやる」

若林は煙管を咥え直し、立ち上がった。

「『孫子』の兵法の極致。戦わずして勝つ。……日本の歴史上、最も無能で滑稽なテロリストの親玉に、政治家という生き物の本当の恐ろしさを教えてやるわい」

元禄14年、冬の足音が近づく江戸。

武士の意地と忠義が、現代の政治力と資本主義の前に完全敗北を喫する「最終交渉」の舞台が、整おうとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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