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EP 8

『学問のすゝめ』第五手 ―― 絶望の帰還と、圧倒的なる「格」の違い

元禄14年、梅雨。

山城国・山科(現在の京都)。

赤穂藩の筆頭家老であった大石内蔵助は、江戸から遠く離れたこの地に隠棲していた。

表向きは遊郭で放蕩三昧を装い、幕府や吉良の目を欺くためのカモフラージュであったが、実際には資金繰りの悪化と、世間の冷ややかな目により、文字通り「身動きが取れない」泥沼の状況に陥っていた。

「……ご家老。江戸より、荷車が到着いたしました」

降りしきる陰鬱な雨の中、家臣が青ざめた顔で大石の元へ報告にやってきた。

「荷車だと? 江戸の同志からか?」

「それが……」

言い淀む家臣を押し除け、大石が表へ出ると、そこにはむしろを被せられた一台の粗末な荷車が置かれていた。

雨に打たれる筵からは、えた血と、強烈な薬の匂いが漂っている。

大石が震える手で筵を捲り上げると、そこには――。

「ヒッ……! あ、あああ……」

「許してくれ……もう、竹槍は……上から、熱湯が……!」

虚ろな目で宙を見つめ、ガタガタと震えながらうわ言を繰り返す、三人の男たちが転がっていた。

江戸で過激化し、「我ら三人で吉良の首を取る」と息巻いて飛び出していった急進派の若き浪士たちだった。

「お主ら……! いったい何があった!? その無惨な姿は……まさか、吉良邸に押し入ったのか!?」

大石の問いかけに、三人のうちの一人が、焦点の合わない目をぎょろりと動かして大石を捉えた。

「ご家老……無理だ。あんなもの、武士の戦ではない……っ」

男の頬には一筋の涙が伝い、歯の根が合わないほど震えていた。

「門は開いていた……だが、庭が、庭が迷路になっていたんだ……! 光で目を潰され、上から網が降ってきて……! 顔も見えない壁の向こうから、無数の槍が、熱湯が……! 俺たちは、刀を抜くことすら……一太刀振るうことすら、許されなかった……!」

それは、大石がこれまで信じてきた「剣客同士の斬り合い」という武士の常識を根底から覆す、機械的で無慈悲な『殺戮システム』の報告だった。

吉良の家臣たちは、恐怖に怯えるどころか「百両だ! 俺の獲物だ!」と歓喜の声を上げながら、自分たちを害虫のように駆除したというのだ。

「そして……吉良上野介が……あの悪魔が、こう言ったんだ……!」

男は、恐怖に顔を歪めながら、若林が放った呪いの伝言を口にした。

『ワシはお前らのようなゴミ虫の相手をしている暇はない。どうしても死にたいなら、出直してこい』――と。

「あっ、ああああああっ!!」

男は自らの惨めさと恐怖を思い出し、再び狂乱して頭を抱え込んだ。

大石は、土砂降りの雨の中で立ち尽くした。

手足の傷の手当てをされ、わざわざ生かして送り返された意味。それは「慈悲」などではない。

『お前たちの命など、殺す価値すらない一文の得にもならないゴミである』という、吉良からの絶対的な「格付け」の証明だった。

資金(兵糧)を断たれ、世論(大義)を奪われ、そして武力すらもシステムの前には赤子扱い。

大石の心の中で、かろうじて保っていた「武士の意地」という細い糸が、プツリと音を立てて切れるのを感じた。

***

一方、その頃。

江戸・本所松坂町の吉良邸では、梅雨の湿気を吹き飛ばすような、活気に満ちた空気が流れていた。

「……うむ。今週のカレーは、少し出汁を効かせすぎたか。じゃが、胃の腑に染み渡るわい」

金曜日の昼下がり。

若林幸隆(吉良上野介)は、いつもの南蛮汁カレーを平らげると、純銀の煙管きせるに極上の刻み煙草を詰め、縁側でくつろいでいた。

傍らには、防衛隊長兼・秘書官とも言うべき小林平八郎が、分厚い帳簿の束を抱えて控えている。

「殿。例の三人の狂犬どもは、無事に大石の元へ『配達』された頃合いかと」

「フン。今頃、大石のタヌキは、己の無力さに絶望して雨の中で泣いとるじゃろうて。……じゃがな、平八郎。守りを固めて敵を追い払うだけでは、政治家とは呼べん」

若林は煙管の雁首を、トントンと平八郎が抱える帳簿の束に打ち付けた。

「敵が自滅していくのを待つ間、ワシらはワシらで『国力チート』を底上げするんじゃ」

若林の五つの政治哲学。その四つ目である**『学問のすゝめ』**(福沢諭吉)。

「天は人の上に人を造らず」というフレーズばかりが有名だが、あの本の本質は「無知は罪であり、実学(経済・科学・実用的な知識)を学んで稼ぐ者こそが上に立つ」という冷徹な実力主義にある。

「平八郎。三河の吉良荘(領地)で作らせとる『塩』の具合はどうじゃ?」

「はっ! 殿が新たに御考案された『入り浜式塩田』の改良と、石炭を用いた煮詰め窯の導入により、生産量は従来の三倍に跳ね上がっております! 質も極上。大坂の商屋どもが、血眼になって買い付けに押し寄せておりまする!」

史実の吉良上野介も領地経営に長けた名君であったが、そこに「現代の防衛大臣・与党幹事長」としての若林の知識(近代的な生産効率化の概念)が加わったことで、吉良家の経済力は今や大名クラスすら凌駕する勢いで爆発的に膨れ上がっていた。

「よきかな。……その莫大な利益を、幕府の勘定奉行・荻原重秀殿や、老中どもに『献金(賄賂)』としてバラ撒け。ワシら吉良家の塩の専売が、幕府の財政にとっても『なくてはならない生命線』になるまで、ズブズブに依存させるんじゃ」

若林は懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開けた。

「ええか。政治っちゅうのは『自分がいなくなったら、上が困る状況』を作り出した奴の勝ちじゃ。もし今、赤穂の狂犬どもがワシを殺せば、幕府の財政網に巨大な穴が空く。……上様(将軍)が、そんな真似を許すと思うか?」

平八郎は、己の主君の恐るべき先見の明に、背筋に心地よい悪寒を走らせた。

「……つまり、公儀(幕府)そのものが、吉良家を守る絶対の『盾』になると」

――カンッ!

若林は煙管を打ち鳴らし、極悪非道な笑みを浮かべた。

「その通りじゃ。大石の奴らは、ただの老いぼれジジイの首を狙っとるつもりじゃろうが……その実、奴らが立ち向かっとるのは、江戸の世論、莫大な経済力、そして幕府という巨大な国家権力そのものなんじゃよ」

若林は紫煙を深く吸い込み、ゆっくりと天に向かって吐き出した。

「武士の意地だの、忠義だの……貧乏人の慰めにもならん寝言は、ワシの『算盤(経済力)』の前にひれ伏せばええ。大石よ、テメェらに討ち入りの花道など用意してやらん。ただの忘れ去られたホームレスとして、歴史の泥に沈めてやるわい」

「赤穂浪士」と「吉良上野介」。

かつて日本中が涙した復讐劇の構図は、もはや見る影もなかった。

そこにあるのは、圧倒的な資本とシステムを持つ現代の怪物による、無力な旧時代への一方的な「完全試合パーフェクトゲーム」の完成図であった。

読んでいただきありがとうございます。

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