EP 7
『孫子』と『韓非子』の融合 ―― 絶対防衛線と狂犬の末路
元禄14年、夏。
江戸・本所松坂町にある吉良邸は、外見こそ以前と変わらぬ武家屋敷であったが、その内側は若林幸隆(吉良上野介)の指示のもと、異様な変貌を遂げていた。
「……見事な迷路じゃな。これならネズミ一匹、迷わずには歩けまい」
夕暮れ時。若林は自室の縁側から、完成した中庭の改修を満足げに見下ろしていた。傍らには、防衛隊長としてすっかり板についた小林平八郎が控えている。
「はっ。殿の御図面の通り、表門から母屋へ至る動線に、漆喰で塗り固めた分厚い『目隠し塀』を幾重にも張り巡らせました。侵入者は必ずこの入り組んだ通路に誘導されます」
「うむ。高台の射角も申し分ない。滑り止めの灰と、目潰し用の灰の備蓄も十分じゃな」
「抜かりございませぬ。……ただ、一つだけ問題が」
「なんじゃ」
平八郎は、少しだけ困ったような、しかし頼もしい笑みを浮かべた。
「家臣どもの士気が高すぎて、『赤穂の歩く百両どもは、いつになったら来るのだ』と、夜警の交代すら渋る者が続出しております。皆、獲物を待ちわびる猟犬の如き有様でして」
若林は、純銀の煙管を取り出し、ふっと笑った。
無理もない。若林が定めた「赤穂浪人を討ち取れば即座に百両(約一千万円)」という狂気的な信賞必罰(『韓非子』の教え)は、平凡なサラリーマン侍たちを、血に飢えた最強の防衛部隊へと作り変えていた。
もはや吉良邸に、赤穂の復讐を恐れる者は一人としていない。彼らにとって赤穂浪士とは、己を億万長者にしてくれる「ボーナス」でしかないのだ。
「フン、頼もしいことじゃ。……焦るなと伝ええ。瓦版屋を使った世論工作と、勘定奉行を抱き込んだ兵糧攻め(口座凍結)は完全に効いとる。奴らは今頃、江戸の安宿で世間から石を投げられ、泥水すすって餓死寸前じゃ。……遠からず、耐えきれなくなった狂犬が、必ず尻尾を出して突っ込んでくる」
若林が懐中時計の蓋をカチンと閉じた、その日の深夜だった。
***
「……静かなもんだ。吉良のジジイめ、すっかり安心しきってやがる」
漆黒の闇の中、吉良邸の裏塀に張り付く三つの黒い影があった。
赤穂浪士の急進派(過激派)の若者たちである。
彼らは限界だった。大石内蔵助の「時期を待て」という指示に従い江戸に潜伏していたものの、藩の隠し金が完全に凍結されたことで、生活は困窮を極めていた。
刀の鞘すら質に入れ、その日食べる米すら事欠く有様。おまけに江戸中に出回った瓦版のせいで、町民からは「あれが狂人・浅野の家来だ」「とっとと田舎へ帰れ」と嘲笑と罵声を浴びせられる毎日。
武士としてのプライドをズタズタに引き裂かれた若者たちは、ついに大石の制止を振り切り、「我ら三人で吉良の首を取り、江戸中の目を覚まさせてやる!」と、単独での暗殺行動に打って出たのだ。
「行くぞ。俺たちが吉良の寝首を掻けば、世間も我らの忠義を理解するはずだ!」
三人は音もなく塀を乗り越え、吉良邸の敷地内へと侵入した。
警備の侍の姿はない。あまりにも呆気ない侵入成功に、彼らの口元に嘲りの笑みが浮かぶ。
「腰抜けめ。屋敷の造りだけは立派だが、肝心の警備はザルじゃねえか。これなら楽に母屋まで……ん?」
闇夜の中庭を進もうとした彼らは、すぐさま違和感に気づいた。
彼らが事前に(高値で)買っていた吉良邸の図面と、目の前の光景が全く違うのだ。
まっすぐ母屋へ通じているはずの庭は、見上げるほどの高い漆喰塀によって細かく区切られ、まるで巨大な迷路のようになっている。
「な、なんだこの不気味な塀は……! 道がわからねえ!」
「こっちだ、この通路の先に母屋の明かりが……くそっ、行き止まりだ!」
右往左往する三人。焦りが生じ、足音が乱れる。
狭い通路の奥、三方向を高い壁に囲まれた袋小路に彼らが迷い込んだ、まさにその時だった。
――カンッ!!
闇夜を切り裂く、甲高く鋭い金属音。
それを合図にしたかのように、四方の塀の上、そして二階の窓から、パッと無数の提灯が一斉に掲げられた。
「な、なんだ!?」
夜の闇に慣れきっていた浪士たちの目に、強烈な光が突き刺さる。反射板を取り付けた特製の提灯から放たれる光が、袋小路にいる三人を舞台の主役のように煌々と照らし出した。
彼らは完全に「盲目」となった。
「目標、罠に到達!! これより駆除を開始する!!」
頭上から、小林平八郎の冷酷な号令が響き渡った。
「伏せろ!!」
浪士の一人が叫んで刀を抜いた瞬間。
塀の上から、彼らを押し潰すほどの巨大な網が、重りを伴ってドサリと落ちてきた。
「ぐあっ!? な、なんだこの網は! 刀が振れねえ!!」
「糞っ、離せ! 卑怯者ども、正々堂々と勝負しろ!!」
網に絡まり、もがく浪士たち。
武士の戦いであれば、ここで名乗りを上げ、一騎討ちとなるのが常識だ。しかし、彼らを待ち受けていたのは「武士」ではなく、若林幸隆によってシステム化された「防衛兵器」であった。
「撃てェ!! 百両は俺のモンだァ!!」
吉良の家臣たちの怒号と共に、塀の隙間(銃眼)から無数の竹槍が機械的に突き出され、網に絡まる浪士たちの足や腕を容赦無く串刺しにしていく。
さらに頭上からは、熱湯や目潰しの灰が雨霰と降り注いだ。
「ぎゃあああああっ!! 目が、目がァ!!」
「あ、熱い!! 助けてくれ、殿ォ!!」
剣豪としての腕前など、完全に無意味であった。
敵の姿すら見えず、刀を振るう空間すらなく、上と横からの絶対的有利な位置からの集中砲火。現代の市街地戦術『致命的な漏斗』の前に、大義名分を叫ぶ狂犬たちは、文字通り「害虫」のように蹂躙されていった。
開始からわずか数分。
三人の浪士は全身を血と泥と灰まみれにし、手足を竹槍で突き穿たれ、完全にピクピクと痙攣するだけの肉塊と化していた。致命傷は与えられていないが、完全に戦闘不能である。
***
「……制圧、完了いたしました」
平八郎の報告を受け、安全な二階の窓辺からその光景を見下ろしていた若林は、つまらなそうに煙管の煙を吐き出した。
「ふぁあ……あくびが出るわ。たったの三人とはな」
階下の庭では、網に絡め捕られた三人が、吉良の家臣たちによって荒縄で簀巻き(すまき)にされているところだった。
「て、てめえら……卑怯だぞ……! 武士の風上にも置けねえ……!」
口から血を流しながら、浪士の一人が若林を睨みつけ、恨み言を吐く。
「卑怯?」
若林は、冷え切った目で見下ろし、腹の底から響く広島弁で言い放った。
「深夜に人の家にコソ泥みてえに忍び込んどいて、正々堂々もクソもあるか。おどりゃあ、まだ自分が『悲劇のヒーロー』じゃとでも思っとるんか?」
若林の言葉に、浪士は言葉に詰まる。
「お前らのやったことはな、大義名分もない、世間からも鼻で笑われる、ただの『金欠浪人の押し込み強盗』じゃ。……平八郎」
「はっ!」
「こいつら三人は殺すな。手足の傷の手当てをして、江戸払いにしろ。……大石のタヌキの元へ送り返してやるんじゃ」
浪士たちの目が驚愕に見開かれた。ここで斬首されると思っていたからだ。
「なぜ……生かす!? 我らを侮辱する気か!」
「勘違いするな。お前らの命に価値など一文もねえ」
若林は、暗闇の中で悪魔のように口角を吊り上げた。
「大石に伝ええ。『ワシはお前らのようなゴミ虫の相手をしている暇はない。どうしても死にたいなら、出直してこい』とな。……這いつくばってでも生きて帰り、テメェらのその無惨な敗北の姿を、赤穂の連中に見せつけてやれ」
死よりも残酷な「生殺し」の宣告だった。
資金が尽き、世論に見放され、唯一の希望であった「武力(暗殺)」すらも、吉良邸の圧倒的な防衛システムの前には赤子同然に捻り潰される。
その「絶望の事実」を、この三人をメッセンジャーとして大石内蔵助のもとへ届けるのだ。
「や、やめろ……! 殺せ! いっそ殺してくれぇぇっ!!」
屈辱に号泣する三人の浪士の悲鳴を背に、若林は障子をピシャリと閉めた。
「さて……。手足をもがれ、眼を潰され、最後の牙すらも折られた大石内蔵助。……テメェは次に、どんな無様な姿を晒してくれるんじゃろうのう」
暗闘は完全に若林幸隆のペースだった。
「忠臣蔵」という幻想は、現代の政治家による知略の前に、凄惨な消化試合へと向かいつつあった。
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